しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

しべ桜の興味津々の新着ブログ記事

  • 鞠智城をご存知なら、かなりの日本史通です

    国史跡、鞠智城は熊本県山鹿市菊鹿町米原にあります。 何と言ってもこの復元された八角形の建物が往時を偲ばせてくれて います。 この建物は4棟の跡地が見つかっています。南北2棟が一対となり、 さらに時を超えて同じ場所にもう一対建てられたようですね。 さて復元した建物を紹介しましたが、ここは本当にお城な... 続きをみる

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  • 体感、♪~あぁきのゆうひに~てるやまもみじ~パート2

    小国町の下城の大銀杏を見物したあと、遊水峡へと向かいました。 車で5分くらいの近さですが、急に奥山に入りこんだ感じになります。 そして目にした景色は・・ 紅葉と渓流の和の世界に引き込まれました。 かわいいカフェでまずはお茶しました。 カフェテラスでお茶なんて、人生初体験!しかも紅葉のパノラマですよ... 続きをみる

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  • 体感、♪~あぁきのゆうひに~てるやまもみじ~♪

    菊池菊まつりの帰りに阿蘇方面へ足を延ばして紅葉を楽しみました。 菊池渓谷を通って阿蘇外輪山へ抜ける観光道路があります。 人生黄昏モードのつれどうしですが、この日ばかりは晴天に 恵まれルンルン気分(笑) 阿蘇カルデラの中に浮かぶ阿蘇五岳、釈迦の涅槃像に例えられています。 遠くに見えるのは九重連山です... 続きをみる

  • 菊池の菊まつりで菊の花に魅せられて・・

    菊の花見なんて何年ぶりでしょうか。 今日はしっかり、じっくり、ゆっくり、そしてまったりと菊見を して来ました。 ♪~菊はバラより美しい♪~~                 本当はバラが好きです(笑)  まだ満開ではなかったのが本当に残念です。 満開だったら、菊、菊、菊、菊づくしでせまられてどうな... 続きをみる

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  • 菊池御松囃子能と十月桜観て来ました

    5月2日のブログで紹介していた松囃子能です。 国の重要無形民俗文化財に指定されています。 普段はこのように閉じられていますが、秋季大祭の10月13日に開かれ 能が舞われるのです。 奉納神事ですので、菊池神社から懐良親王と良成親王を象徴する 二本の金幣(御幣)がこの頓宮に移されます。横の大木は将軍木... 続きをみる

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  • 夕日から明かり受け取る月の膳 (しべ桜)

    今夜は中秋の名月ですね。お約束通りに愚句をひねりました。 どうしても山の端から上る月を見たくて、俵山高原(西原村)まで 行って来ました。 ちょうどコスモスが満開でしたよ。 夕日が西の金峰山に沈み、待つこと40分、 肉眼ではもう少し周りは明るい感じでしたが 見てください、山頂辺りがほんのりと光に包ま... 続きをみる

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  • 連歌と菊池万句と秋の草花

    連歌とは和歌を五・七・五と七・七に分けて、二人以上で次々と 連続させて詠みあいながらひとつのまとまった美的世界を 創り上げていくものです。 始まりは万葉集とも言われていますがその後の戦乱の時代にも連歌は 人々に愛好され成長発展していきます。 勿論、菊池とて例外ではなく、武士を始め、僧侶や神官なども... 続きをみる

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  • ただ不満を爆発させただけでは無いのです。

    明治9年に起きた神風連の乱の志士たちのことです 彼等は真に国の行く末を憂い、事を起こすことで、急速な欧米化により 日本古来の精神性が失われて行くのを守ろうとしたのです。          その行為は決して是とするものでありませんが・・ 熊本市中央区黒髪に桜山神社はあります。 上の文字が小さくなって... 続きをみる

  • 皆さん!山鹿市立博物館を忘れてやしませんか?

    1978年開館された山鹿市立博物館です。 大坪眼鏡橋が隣接地に移築されてます。 館内には勿論、貴重な考古資料が展示されています。大人から子供 まで、なるほど納得できるいい施設です。 なのに、この閑散さ・・寂しすぎます。 まだたくさんの箱式石棺がここにはあります。 博物館からは静かな古代への道が続い... 続きをみる

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  • 池田屋で近藤勇と斬り合った志士高木元右衛門

    懐良親王ゆかりの将軍木の隣地にわいふ一番舘があるのですが そこに、知る人ぞ知る高木元右衛門の銅像が立っています。     (知らない人は知らないの中に私も入るのですが・・) 居ましたねぇ菊池にも、剣豪が。 ただの剣豪ではありませんよ。学問にも秀でていたのです。 元右衛門は1833年菊池市深川に生ま... 続きをみる

  • 夏の菊池遺産巡り、石段と坂道と熱中症との戦い?

    猛暑日の中、今回もあちこち行って来ました。 菊池は盆地です。分かってはいたのですが・・負けました ↓↓ でも、この風景を皆さんにぜひ見てもらいたい! 菊池市稗方にある菅原神社です。 怖くない仁王像が迎えてくれます。 狛犬まで愛嬌有りに見えますね。 石製の梅の木と花に石馬の奉納品、なかなかありません... 続きをみる

  • 有名も無名も隈なく有り難き宮、七城町

    菊池兼朝公墓はまだご紹介してませんでしたね。 兼朝はあの武朝の嫡子です。父の意思を継ぎ活躍しますが、その 最中、嫡男持朝に家督を譲り、芦北佐敷に隠居してしまうのです。 何故でしょうね・・と6月のブログにも書いてますが・・ 持朝公墓は隈府町近くの菊池川沿いにあります。 じゃまた七城町に戻りましょう。... 続きをみる

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  • 夏の菊池川上流に行ってみなっせ、涼しかよ~

    ♪貧しさに負けた~♪い~え暑さに~負けた~♪ そこで今日は涼しくなる風景をお届けいたします。 菊池川を鮎のようには遡ることが出来ないと書いたあの日に 行くはずだった滝に行って来ました。 菊池市重味滝にある産さん滝です。 滝の上流では家族連れが水遊びを楽しんでました。 でもしだいに流れが速くなり・・... 続きをみる

  • 源為朝の妻子伝説が残る神社があった!

    菊池市役所に行ってガイドブックを頂きましたよ。 菊池市史を読んで気になっていた神社が幾つかありましたから。 そう、この神社気になりますよねぇ。で、この暑い中行って来ました 菊池神社大鳥居前を過ぎたら旧道に入り石橋を渡り北上します。 数分走ると平野部が狭くなり左側に岩の崖が多くなります。 そしてこの... 続きをみる

  • 川の両側に海津見神社と綿津見神社があるのです

    七城町に海津見(わだつみ)神社があると知って興味津々、 早速行ってみました。 だって菊池は内陸部ですよ。 今月12日のブログに載せた川です。 この川下の左岸に海津見神社、右岸に綿津見神社、どちらも わだつみ神社といいます。 こちらは七城町の神社です。 創建したのは菊池武朝です。 夜毎、川の底にキラ... 続きをみる

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  • 渋江家の由来と逸材を辿ります

    菊池市隈府が第二の故郷だと言いながら、菊池に多大な功績を 残された渋江家を危うく素通りするところでした。 ♪あの日~あの時~あの場所で~♪ 雨がそぼ降る中、ふと目に留まった神社、何か気になって車から 降りて写真を撮りました。 ちょうどその時渋江宮司さんが車で来られたのです。 偶然は必然、本当にそう... 続きをみる

  • 天地元水神社の宮司渋江家は橘諸兄が始祖です!

    覚えてますか?この神社を。偶然通りかかったんですけどね。 6月30日のブログに乗せました。 この時おられた宮司さんが渋江さんでした。 7月16日に神事があるので良かったらどうぞと言ってくださり 先日、伺いました。 天地元水神とは、天にあっては国狭槌命(クニサツツチノミコト) 地にあってはミヅハメノ... 続きをみる

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  • 台城(うてなじょう)へ行ってみましょう→

    台城の足元の水田地帯です。 ここで、水島の戦いは行われました。 台城から山鹿市方面を見ると、 今川了俊が陣を置いた日の岡山が(鹿本町)見えます。 中央奥の右側の山です。この写真の道の右上に台城があるのです。 本丸はこの奥です。 このうてな台地は今は平に整地されていますが、大小の古墳が 多く存在して... 続きをみる

  • 地震、雷、火事、豪雨、災難続きの故郷たちです。

    今回の豪雨災害本当にひどかったですね。 今の日本どこに住めば安心して暮らせるのか、我が故郷も昨年地震が 起こり、甚大な被害を受けました。その4年前はやはり北部九州豪雨で 被災しています。 安心安全な所なんてもしかしたら無いのかも? でも、故郷は何があっても故郷です。例え住めなくなったとしても 心の... 続きをみる

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  • 菊池武朝申状 後編 仍て言上件の如し

    さて、今日は武朝申状のご紹介でしたね。 漢文体で書かれていたそうです。 菊池市史に掲載してある読み下し文を紹介します。 武朝の心中を察して難解な漢字にめげることなく読んで下さいね。   ※ 菊池右京権大夫武朝申す代々の家業の事 右今度勅使、将軍の宮に申さるるが如くんば、当家の忠孝は、元弘の 忠志に... 続きをみる

  • 菊池武朝申状 前編 侮られてたまるか

    北部九州が今大変な事態となっていますが、熊本に居る身としては 一日も早く収まり元の暮らしに戻られることを切に願っております。 では話をさせて頂きます。 あの南北朝動乱はあまりにも長すぎました。 足利将軍義満の時代1392年にやっと合一します。 しかしその動きは10年以上も前から始まっていたのでした... 続きをみる

  • 嵐に翻弄される樹々を見ていて想うこと・・

    いきなり台風がきました。写真では良く分からないですが、 左右に大きく揺さぶられる樹々たちです。 自然には逆らえないと、つくづく思い知らされますよね。 でも翻弄するのは自然ばかりではないことは皆様ご承知のはず。      故郷に今夜ばかりの命とも             知らでや人の我を待つらん こ... 続きをみる

  • 懐良親王の晩年は筑後矢部でも御陵は八代?

    八代市にある懐良親王御陵です。 明治11年に公式に認められたそうです。 亡くなられた場所とお墓がだいぶ離れているのに何故でしょうか? 涼し気な川と緑あふれる山に囲まれた静かな所です。 天皇の勅使が御陵参拝後にこの石段を上って悟真寺に行かれたとか。 説明板によると、良成親王の命で菊池武朝が懐良親王の... 続きをみる

  • 菊池川を遡って・・でも鮎じゃないのでムリ・・

    ここは菊池川が山あいを抜け出て、平野に流れ始める所です 同じ場所から川下を見ると、ね、広いでしょ。 今日は、この川の上流にあると聞いた可愛い滝を目指しました。 途中立ち寄ったのがここです。 菊池氏は山越えして襲ってくる大友氏に備えて砦城を何か所も 作っていました。 道をかなり進むといよいよ渓谷らし... 続きをみる

  • どうしても書いて置きたい十四代武士のこと

    菊池武士(たけひと)は勇将武重と猛将武光との間に惣領に なった人です。 武重が亡くなり、武士が当主になって菊池氏は混乱状態に なりました。 征西府将軍懐良親王が九州に西下されるので、お迎えする為の 準備をせねばならない時期です。 しかも武家方が対抗するために絶え間なく攻撃をして来ます。 尊氏は菊池... 続きをみる

  • 肥後三轟水、宇土轟水源は城跡のすぐそばです。

    宇土古城の上からは宇土半島の峰々がすぐ近くに見えます。 その麓に轟水源があるのです。 犬の散歩に来られていた方が、地震のあと水量が増えたようだと おっしゃってましたが、あれだけ揺れれば水脈への影響もある かも・・ 時々行く西原村の水源です。 ここも相変わらずの湧水量で安心しましたが、近くの堤と 橋... 続きをみる

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  • 国指定の中世宇土城跡を見に来ませんか?

    今回じっくり見学して来ましたが、正直驚きました。 とにかく説明板を読んでください。 千畳敷にある建物跡地です。 頂上部からは、360度見渡せたでしょう。 今は木がありますが・・ この城跡は古墳時代にも建物があったのでしょうか? 土師器や箱式石棺も出ていますし・・ 何世紀にも渡り活用されていたという... 続きをみる

  • もっと早く行けば良かった大慈禅寺です

    この山門を見た時、どうして傷つく前に、お参りに来なかったのか 初めて訪ねたお寺の痛々しい姿に自分を責めました。 仁王像も地震で倒れてたそうです。 本堂もご覧の通り修復中です。 御本尊もたぶん・・ 大智禅師の師である寒巌義尹は順徳天皇の皇子だったのですね。 国宝である梵鐘はもちろん外されてましたが、... 続きをみる

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  • 一休さんみたいな幼少期、名僧大智禅師

    今日は、菊池氏が心の師と仰いだ大智禅師への興味津々です。 禅僧の生涯が如何なるものであったのか紐解いてみましょう。 大智は熊本の不知火町の農家に生まれますが、子供の頃から 仏に興味を持っていて、坊さんになりたいと言い出したのが 七歳の時です。 川尻町の大慈禅寺の寒巌義尹和尚は連れて来られた大智を見... 続きをみる

  • 菊池氏の終焉で、空の巣症候群に陥っています

    今年は空梅雨か?と思うほど雨が降らなくて紫陽花もチリチリ に渇いてたけど、やっと雨が降り出しました。 さて、菊池氏は二十四代で途絶えてしまいました。 まだ話たいことがあるのに、こちらまで気分が落ち込んで・・ 菊池氏ロスになってしまいました、どうしましょう・・ 今日はこれまで載せてない写真を紹介しま... 続きをみる

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  • 京都五山にならった菊池五山が大変なことに・・

    「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色・・」 写真の木は夏椿です。沙羅の木とも呼称されています。         夏椿が儚さを誘うから、そう呼ばれるようになったそうです。 さて、あの送り火で有名な京都五山というのはご存知ですよね。 実は菊池にもあったのです、五山が。 菊地武光公の時、... 続きをみる

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  • 島津大友の争いで漁夫の利?秀吉九州平定

    島津氏は阿蘇南郷の高森氏を亡ぼして、肥後を統一しました。 1586年の事です。 それ以前1579年には龍造寺氏を破っています。 豊後の大友氏を攻め落とせば九州平定は目の前です。 島津勢は大軍で入り、豊後の半分を落としました。 堪り兼ねた大友氏は、秀吉に助けを求めたのです。 秀吉は天下統一を目指して... 続きをみる

  • 戦国末期の名将、甲斐宗運は菊池氏の子孫である

    1551年、大友宗麟が肥後守護となって以来、菊池家三家老のうち 赤星氏が隈府城に入り、城氏は隈本城に行き、隈部氏は山鹿の永野城 を居城としました。 大友宗麟の配下としての統治です。 しかし、その間、隈部氏と赤星氏は互いの勢力を大きくしようと 争うようになったのです。 両氏の祖先は菊池家のために団結... 続きをみる

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  • 菊池領のその後、貴方だけにそっとお話します

    菊池氏は1520年に本領を大友氏に奪われ二度と戻れませんでした。 大友当主義鑑の弟重治が、菊池義武と名乗り、肥後守護になった のです。 しかしこの義武、その振る舞いすこぶる悪く、わがままだった ようで、度々忠告をしていた近臣を手打ちにしてしまったのです。 思い出しませんか?似たような事がありました... 続きをみる

  • 武敏公の墓所を訪ねて大分へ・・

    先日大分県の院内町へ行って来ました。目的は菊池武敏公の墓参です。 阿蘇外輪山のミルクロードを通って行きました。 残念ながら、霞がひどく(PM2.5?)阿蘇五岳は見えませんでした。 小国町から大分玖珠町に出ました。 玖珠町の山は面白い形が多いです。 この山が伐株山(きりかぶ)と言って頂上に城がありま... 続きをみる

  • 三度目もあった、惣領への背信の愚

    昨日は政隆自刃の話でしたね。まことに、痛ましい限りです。 さて、その阿蘇氏の菊池武経ですが、素行が良くなくて、次第に 家臣たちにも疎まれるようになってきました。 そこで自ら身を引き、矢部の阿蘇家に帰ったのです。 何のために菊池に出張ってきたのか、これこそ惣領の器量が無いと いう事ではありませんか?... 続きをみる

  • 菊池氏の家臣は何故主君を守れないのか!

    菊池能運が負傷死したのち、遺言により、菊池政朝が家督を継ぎます。 父重安は、能運と共に玉祥寺原で戦い亡くなっています。 祖父為安は二十代為邦の弟でやはり戦死しています。 当主になり政隆と改名しました。 十四歳で肥後守護職に就きます。 そこを阿蘇大宮司惟長が狙っていました。 豊後の大友氏が扇動したと... 続きをみる

  • 菊池氏若惣領を悩ませる、暗躍の輩

    重朝亡き後、家督を継いだのは、またもまだ十二歳の宮菊丸です。 1492年、肥後守に任ぜられ、菊池武運(たけゆき)と名乗りました。 所で、重朝は生前、人吉の相良氏の娘(為続の孫)を武運の妻と するよう取り決めをしていました。 しかし、重朝死去により、重臣たちは、婚約破棄を申し入れた のです。 怒った... 続きをみる

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  • 重朝は統治力不足と言われてますが・・

    菊池氏二十一代を継いだ重朝ですが、若いからと言い逃れられない 事態が起こります。 応仁の乱です。 将軍義政は、細川方に付くよう命じますが、重朝は対する大内方として 兵を動かします。 この乱は、ひとくくりに誰と誰との戦いと言えない所があって 歴女もお手上げです。 結局、重朝は、この戦いで目指していた... 続きをみる

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  • 国指定史跡、細川のお殿様も見に来た隈部館

    山鹿市の山あいに隈部館跡があります。 菊池氏の三家老の一つ隈部家の居城でした。 奥に金峰山がかすかにみえます。 菊地氏滅亡後、三家老の間で争いが起き、そこに大友氏、次に 島津氏そして秀吉の軍が攻めて来たのです。 わずか二ヶ月で平定した秀吉は佐々成政に肥後を治めさせます。 ここに庭園がありました。山... 続きをみる

  • 泥沼のような所領争い、皆、懸命の計り事

    持朝の時に菊池氏は、肥後筑後の守護として勢力を保っています。 嫡男為邦は十六歳で家督をつぎました。 兄弟もそれぞれ、領地を与えられています。 しかし、争いがまた起こります。 将軍足利義政が、筑後守護の半分を大友氏に与えたからです。 肥後における為邦の力の低下を見抜いたためと言われますが 各地でおこ... 続きをみる

  • 菊池氏の結束は永遠には続かなかった・・

    菊池武朝は、十二歳で家督継承して以来、一貫して南朝宮方として 戦い続けました。 懐良親王と良成親王とを奉じての戦さに誇りを持ち幕府に対抗して 来れたのは、菊池一族の固い結束があったからです。 長子兼朝が十八代を継ぎ、父武朝の遺志をも受け継ぎました。 幕府では義満が死去、義持が将軍となります。 途中... 続きをみる

  • 菊池外城の一つ、亀尾城に行って来ました

    武朝が隈府を落ち延びるまで、了俊勢は、二年もの間この城に 陣を置き、じわりじわりと兵糧攻めをしたのです。 やはり、石段をのぼります。 七城町が見渡せます。右奥の緑色の細長く見えるのが台城跡です。 奥に隈府町が見えますよ。ほんとに、目の前まで来てた了俊は、 猫が獲物をいたぶるように、二年もここに居座... 続きをみる

  • 時の流れに~と、身を任せられない武将達の確執

    獲物を狙うサギでしたね。 狙っていたのは九州探題今川了俊、その後ろ盾は室町幕府、そして 狙われていたのは、九州の所領であります。 九州各地は守護の支配のもと、地頭として領地を守っていました。 しかし鎌倉北条は、直轄領を増やしていき、特に蒙古襲来以来 鎮西探題を設置して、そこに北条一門を任命したので... 続きをみる

  • 幕府の宿敵、菊池氏を追い込む了俊の策の裏表

    菊池平野です。右奥の低い丘に台城(うてなじょう)があります。 左奥手前の丸く見える山が了俊が陣を置いた所です。 この狭い場所で両軍は戦うのですが、 了俊は、九州の守護、大友、島津、少弐の三氏にも、ここに 来るように命令します。 しかし、少弐氏は遅れました。ひそかに菊池勢と通じていたのでは と言われ... 続きをみる

  • 智略家了俊、次の獲物は・・武朝危うし!

    武光亡き後、弟武政は、肥前の味方軍とともに戦いを休むことなく 挑むので、了俊は高良山へ総攻撃をかけることが出来ません。 しかしじっくり時を待っていた了俊、ついに高良山を攻めます。 高良大社の樹齢四百年と言われる楠です。 でも、ここでの攻防戦は1374年です。この楠はまだありません。 武光の死からわ... 続きをみる

  • 亀の甲より何とやら・・今川了俊の戦法の妙

    菊池神社の石段です。 懐良親王と武光は石段を一歩、一歩登り詰め、やっと大宰府に 征西府軍を設けることができました。 足利尊氏は大原合戦の前年1358年、病死しています。 九州の状況を気にして、遠征しょうとしていたと言われています。 そのあと京都は南朝勢と幕府足利義詮勢の争いが続き、おまけに 武将た... 続きをみる

  • 大宰征西府を追い詰める武将現る、それって誰?

    サギが漁をしているところだと前日言いましたよね。 獲物をじっくりと狙っているのです。 そ、狙われていたのは征西府なんです。 どうやら魚を川から獲ったみたいですね。 大原合戦で勝利した武光達は、大宰府に征西府を置くまでに、 実に二年もの月日を要しました。 菊池征西府軍は、頼尚の勢力がまだ残る肥前の各... 続きをみる

  • 激戦に散った、武士、雑兵への鎮魂

    小郡市役所のすぐ横に公園があり、碑が建てられています。 五万騎塚は、久留米市宮ノ陣にあります。 過去における数多の合戦において、武将の死は歴史書に残されますが、 名もなき兵たちは戦場に屍が放置され、故郷へ帰る道もわからないまま 魂はさまよい続けます。 当時の人々はそれを哀れみ、敵味方なく葬り、塚を... 続きをみる

  • 大原合戦、慌てず騒いで、勝ちに行け!

    さて、武政率いる夜襲部隊、闇夜にまぎれて、川を渡り、 父の言いつけ通り三隊に分かれて、待っていたのですが、不覚にも 敵兵に発見されました。 止むを得ません、武政隊は、火を放ちながら、大きく、ときの声を あげて突入しました。 ところがこれが功を奏し、狭い所にひしめいていた少弐軍は 大部隊のため大混乱... 続きをみる

  • 現代にも通じる、見極めと思い切りが大事

    筑後川から見た耳納山と右に高良山です. 当時は、おそらく河原と湿地帯だったでしょうか。 以下、述べます決戦の様子は、菊池市史に掲載されているものです。 時は1359年の夏、武光たちはまず、詳細な情報を元に計画を 立て、少弐軍が渡河攻撃するのを待ちますが、警戒して 出てきません。 そこで、次の計画を... 続きをみる

  • 戦略、戦術に加え瞬時の対応も、武将の心得とせよ

    九州の真ん中辺りの盆地を領地にしていた武光、祖先の宿願成就を 目の前にして、士気は上がります。 でも一応は宮方に服した九州の諸将たちも、足利義詮󠄀のたびたびの 教書に、まず大友氏時が従い、その大友氏にさらに付く者が 出てきました。 少弐頼尚もその一人です。 大友氏とひそかに連絡を取り、兵をあげま... 続きをみる

  • 九州の武家方は、どっちもどっち、でも必死?

    さあ、続きを始めましょうね。 探題職を直冬に取られた一色範氏は、宮方に付きました。 宮方の菊池勢は、戦うこと無く、一色勢を味方に出来たのです。 これを受けて、大友氏、島津氏も同調する動きをみせます。 宮方征西府軍は、北九州へ向けて出立します。 一色範氏は陣を出して征西府軍と合流しようとしますが そ... 続きをみる

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  • 幸運だった?武光、尊氏派の内紛ありで・・

    菊池氏十五代を継いだ武光は、すんなりと惣領に成れた訳では ありません。 鎌倉の鎮西探題に討ち入り戦死した、武時の十番目の庶子として 武光は城南町豊田荘の地頭職にありました。 嫡流ではなかったのです。 その頃、菊池は内外ともに不安定であり、 十四代武士が大智禅師に頼み、、出家したのです。 合志氏には... 続きをみる

  • 懐良親王、隈府征西府までの紆余曲折

    後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王が九州に向けて、吉野宮を 出られたのは、七歳でした。 親王をお守りしたのは公家の五条頼元たち十二名です。 その前にすでに、受け入れのための先遣隊として、肥後、薩摩 日向に、公家方が送られていました。 わずか七歳とはいえ、天皇の皇子です。 遣わされた従者の心労は... 続きをみる

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  • 勢返しの滝は、武者返しだった↑↑

    昨日、紹介した滝はやはり,勢返しの滝でした。 迫間川の両岸が最も狭くて、ここを通るしかなかった昔は、交通上 の要でした。 番所という地名もあり、細川藩が足軽を配置していたそうです。 もう一度見て見ましょう 滝は小さいけど滝つぼは深そうですね。 何故、勢返しなのか? そう、軍勢を引き返させたからです... 続きをみる

  • ご利益あるかな? 不思議な神社です。

    竜門ダムのすぐ足元に、不思議なお社を見つけました。 奥に見える白いコンクリートはもうダムです。 この鳥居をくぐって下へおります。 ずっと下から、川のせせらぎが聞こえます。 え、神龍?・・一瞬ドラ〇〇〇〇ルのことが頭を・・ 信徒の方ごめんなさい。 由来の深い神社なんですね。 すぐ下を、迫間川が流れて... 続きをみる

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  • よりあひしゅのなひたんの事

    よりあひしゅとは寄合衆のことであり、なひたんは内談です。 下の写真は寺尾野の上手のほうです。 菊池武重が、一門がこの時代を生き抜いていくためには、どうしたら いいのかを、重臣たちと話し合いをしたのです。 のちに、菊池家憲とも言われるものです。 三か条からできています。 第一条は、天下の御大事(南北... 続きをみる

  • 武重の奮戦、奮闘は続くのですが・・

    武重が兵をあげた寺尾野城は、のちに大圓寺となり、現在は 神社となっています。 入口に印塔が建てられていました。 神社のすぐ後ろは崖がせまっています。 石垣が昔は城塞だったことを教えてくれます。 武重は戦い続けます。 一色氏を追い払ったあと、弟八郎武豊を筑後に進出させます。 武豊は探題、一色氏の軍勢... 続きをみる

  • 尊氏の杞憂的中、武重の旗あげ

    竜門ダムと八方ヶ岳です。 この下方に、武重が兵をあげた寺尾野城がありました。 1337年の二月に武重が「兵を挙げた」という急報は博多の九州探題 一色範氏のもとに入ります。 探題方にすれば、京都に居るはずの武重が、菊池に帰って来たことは 驚きであり、また重大事でした。 武重の帰国に、九州の宮方は奮起... 続きをみる

  • 密かに託された、武重の役目

    東上を続ける尊氏勢の船団は、七千隻はあったと言われます。 九州に下るときに、中国、四国の味方の領主たちに、 武具や兵糧米を用意しておくよう頼んでいました。 途中から足利軍は、陸と海に別れて進みます。 備中福山城を守っていた菊池武重たちを直義軍が攻めたてます。 比較にならないほどの軍勢に囲まれた武重... 続きをみる

  • 尊氏が九州に居たのは、わずかにひと月だった

    この切り株は松の木です。 山道を歩いていたときに、ありました。 固い岩肌にしっかりと根を張っています。 その姿に、思わずシャッターを押しました。 今、菊池氏に関するお話を書いているせいか、この切り株が 領地、領民を守るために、懸命に戦った武将たちと重なって 見えたのです。 こんなに頑張って生きてき... 続きをみる

  • 多々良浜の戦い、武敏,千載一遇の好機を・・・

    武敏が、少弐妙恵を討って二日後が、この戦いの日となります。 尊氏は、九州にに着いてすぐに、この知らせを聞き、博多へ 進軍します。 しかし装備は不十分なままでした。 「太平記」には、足利方の武士の中には馬も持たず鎧も付けて いない者がいたとあります。 武敏はこのことも見越して、武具を集めていた少弐の... 続きをみる

  • 尊氏、九州へ、落ち延びたのではない?

    箱根の戦いに勝って勢いづいた尊氏勢は、 敗走する義貞勢を追って京都に猛追してきます。 義貞は宇治と山崎の間、大渡に陣を構えます。 勿論、武重も陣内におります。 両軍の主力が死力を尽くしての戦いですから、お互い一歩も譲らず 攻防は三日間も続きました。 時期は冬、正月です。 尊氏は京都に来るまでの間に... 続きをみる

  • 尊氏と、義貞の、合戦また合戦

    足利尊氏と新田義貞は源氏の系統です。血統から見れば 義貞の方が、本家筋となります。 どちらも、北条政権の時に苦杯を舐めています。 源氏の世に戻したい、との思いは同じだったでしょうね。 でも、二人の進む道は次第に分かれて、気が付けば真っ向から 対峙する仲となっていました。 写真は栴檀(せんだん)の木... 続きをみる

  • 動乱のきっかけは、尊氏の鎌倉入り?

    写真は秋の七草の一つ、葛(くず)です。今は成長期で 縦横無尽につるを伸ばしているのです。 どこどこまでも、つるを伸ばして、木や草にからみ付き 巻き倒してしまいます。 見ながら、つい、思ってしまいました。尊氏みたいだなあ、と 後醍醐天皇の新政の時、足利尊氏が受けた恩賞は 武士の中では、楠氏、新田氏を... 続きをみる

  • 歴女も感服、側近の諫言、泣けます

    今日はちょっと菊池氏を離れたお話です。 側近とは、後醍醐天皇の側近、万里小路藤房(までのこうじふじふさ) のことです。 功労者でもあった護良親王(大塔宮)を天皇は追放しました。 親王は後に、拘置された土牢で足利直義によって殺されるのですが、 その時、「尊氏よりも主上がうらめしい」と怨みの言葉を残さ... 続きをみる

  • 建武の新政、武時の無念は晴らされたのか?

    菊池神社本殿です。武時公は主祭神のひとりとして祀られています。 北条氏が滅びると、後醍醐天皇の新政が始まりました。 まずは、手柄を立てた武将たちへの恩賞でしょうね。 天皇が設けた中央の役所に、記録所、武者所、雑訴決断所、恩賞方と あります。公家にしても、武家にしても、恩賞が一番の関心事だった のは... 続きをみる

  • 鎮西探題急襲の何故?と結末

    武時は表向きは、幕府体制側の御家人として、地方の領地紛争などで 幕府が下した判断を、命令、実行する立場にありました。 でも、前にも書いたように、実情は領地を減らされ、蒙古襲来の 恩賞もほとんど無く、一家を支えていくのに苦労していたのです。 そこに、ひそかに届いたのが後醍醐天皇の皇子の護良親王(大塔... 続きをみる

  • 武時挙兵が北条氏滅亡のきっかけ?

    武時とは、先日書いた、あの十四歳で家督を継いだ十二代当主 菊池武時公のことです。 その武時が、蒙古襲来以後に、博多に置かれた、 幕府の出先機関である鎮西探題に討ち入り 壮絶な戦死をとげたのです。 しかし、これがきっかとなり、足利尊氏らが兵をあげ、鎌倉幕府 は滅びました。 そして世は南北朝動乱の時代... 続きをみる

  • ちょっと一服、歴女の好きな隈府町2

    さあ、隈府町の散歩を続けましょう。 昔、住んでたころにあった物、無かった物、はたまた、あったのに 気付いてなかった物など、ふむふむ、むふむふ、苦笑いの連続です。 咲いてましたよ!チャンチンもどきの花。初めて見ました。 もとい、高校生の時には見たかもしれないですよね。(笑) 昔は無かった道路です。あ... 続きをみる

  • ちょっと一服、歴女の好きな隈府町

    さあ、これから、菊池氏が華々しく歴史の表舞台に登場してきますよ。 でも、今日は、ひと休み、ひと休み。 お天気もいい事だし、隈府町をぶらり散歩してみましょう。 ここは御所通りです。 歴史を感じますね。 隈府一番館では菊池氏の墓所展をやってました。 この通りを真っ直ぐに行けば、菊池神社の前に着きます。... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート5、あはれ時隆17歳

    各地の御家人たちは新たな所領の増えない中、庶子のため分割相続を しなければなりません。 本領地は狭くなるばかりです。 一族間の内紛は起こるべくして起こりました。写真がぼやけててすみません。 菊池氏は武房に八人の男子があり、皮肉なことに、 嫡男隆盛が家督を継ぐ前に亡くなります。 そこで隆盛の嫡男であ... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート4 役の後

    二度の蒙古襲来は、大変な死闘の末に終着しました。 とくに二回目の敵軍は 船の数四千四百、兵士は十四万という大軍団でした。 写真は竹崎季長の城跡碑です。社会科で習いましたよね。 「蒙古襲来絵詞」勇ましい姿でした。 菊池市史には彼と武房のやり取りとか、さきがけの功の働きぶりなどが 書かれていて、興味深... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート3菊池武房

    今日は菊地氏十代当主武房(たけふさ)の話でしたね。 最初の蒙古襲来は文永の役(1274年)と呼ばれています。 さて、博多湾西方、百道原(ももじばる)の浜辺に上陸した 蒙古軍に対し、日本側から合戦の例によって 戦さ始めの鏑矢を射放ちますが、 かたや蒙古軍は太鼓をたたき、どらを打ち大声をあげます。 日... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート2、蒙古襲来!

    承久の乱で武家社会を確立した北条氏は、幕府の基本法として 貞永式目(御成敗式目)を制定します。 乱から十年経っていました。 政局は安定し、全国的に開墾もすすみ 質実剛健な鎌倉文化が栄えたのです。 しかし、のちに元となる蒙古が、再三にわたり日本に対して 入貢を迫る国書と使者を送ってきます。 実に七回... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいの!

    前日書きましたね、 鎌倉幕府のやり方を朝廷は黙って見ていたのかと。 この花は都忘れという名前です。 承久の乱で佐渡へ流された順徳上皇はこの花を見れば 都への思いを忘れられると話されたとか。 花言葉はしばしの慰め、別れ、です。 さて承久の乱とはどんな事件だったのでしょう。 この頃、朝廷では後鳥羽上皇... 続きをみる

  • 歴女のばら祭り

    熊本カントリーパークでばらの香に包まれて、英気を養って 来ました。慣れないブログ作りに、少々疲れぎみでしたから。 さ、充分癒された所で、いざ、出陣です。 今日のテーマは領地の安堵です。 頼朝の九州施政は、きめの細かいものでした。 平氏の地盤であったためです。 菊池氏の場合も平氏方として (壇ノ浦の... 続きをみる

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  • 歴女になるなら・・パート3

    新しくなった、八女市岩戸山歴史文化交流舘を見学しました。 岩戸山古墳の石人,石馬は有名ですよね。 後日改めてご紹介致します。 なんと!受付のパンフレットの中に「南北朝動乱のドラマ」の 冊子がありました。 菊地武光とともに南朝の皇子達を守り 戦った八女の武将達、でもまだ詳しくは書けません。 これから... 続きをみる

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  • 歴女になるなら・・パート2

    菊池川流域を治めることになった初代則隆は、本拠地を 川に近い小高い場所にきめます。 ん?丘なんですか?山じゃなくて? 何故でしょうねぇ、 世は平安時代ではありましたが、地方豪族達は着々と 財力と武力とを蓄えていたのです。武力は理解できますが 財力はどうやって増やしたのでしょう。 歴女は考えましょう... 続きをみる

  • 歴女になるなら・・

    ♪~悪女にな~るなら♪~月夜はおよしよ♪~素直になりすぎ~る♪~ では、歴女になるにはどうすればいいのかしら? まず故郷の歴史に目を向けてみるのもひとつの手だとおもいます。 今、菊池氏一族の話を載せていますが、調べれば、調べるほどに 興味が湧いてくるのです。 菊地の隈府を拠点に繰り広げられる 一代... 続きをみる

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  • ブラタモリ風に歩いて見たら・・

    築地井出を見に行きました。 この上流に菊池川からの取水口があります。 お薬師さんの足元を流れ、 本当の所は解りませんが、清正公が作ったと子供の頃に聞きました。 昔はまだ水量が多く澄んでいて冷たく、水底には 川藻がゆらゆらと揺れ動くさまは、子供心にも畏怖の念さえ抱く ほど美しい井出でした。 田園が井... 続きをみる

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  • 菊池氏初代則隆公

    則隆公は藤原則隆として、太宰府天満宮領赤星荘園の荘官 として赴任したと言われています。 姓を地名から取って菊池則隆と称したそうです。(菊地市史) 則隆は領民のため、ひいては荘園繁栄のため,各村に鎮守社、寺を 建立しています。 裏側は急な凝灰岩の崖で、横穴に石仏が祀られています。 ひとつだけ人が入れ... 続きをみる

  • チャンチンもどき・・?

    この高校に通っていた時もここに立ってたんですね。こんな大きな木に 気付かなかったなんて・・、言い訳がましいんですが、 当時とは校舎も違うし、他にも大きな楠が何本もあって、 校門入口からは両側にヒマラヤ杉がずらっと並んでたんですもの。 ごめんなさい。 元体育館跡地から貴重な遺跡が見つかってたんですね... 続きをみる

  • 西郷隆盛の祖先は菊池氏

    あの西郷隆盛ですよ! 木々が邪魔して正面から撮れませんでした。 西郷隆盛は子供たちに菊の一字を付けているそうです。 羽根木八幡神社。 いやあ、びっくり、びっくりですね。さすが菊池氏! そして、もうひとつお見せしたい所があります。 これは年賀塚古墳です。まわりは削られて小さいです。 昭和天皇もご覧に... 続きをみる

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  • 隈府町に行って来ました

    今日は五月五日、数十年ぶりの、祝日のお出かけです。 去年の地震が、人生を変えたようですね。みんなが遊ぶ時に働いて ましたから。新緑の中、行きましたよ隈府へ! 築地井出(ついじいで)があります。この道を歩いて小学校へ 通いました。 今日は菊池神社へご案内いたします。前にも載せましたが、もう一度 お付... 続きをみる

  • もう一度吉野山

    隈府町の事を書くには菊池氏は欠かせませんし 菊池氏の歴史を書くにはやっぱり南北朝時代が欠かせないのです。 どの時代も、領地を懸命に守った菊池氏の当主達、時には拡大、 時には、縮小されつつ、数百年に渡り、菊地を治めたのです。 朝廷を二派に分かつほどの後醍醐天皇のお気持ちとは? 山桜に酔いしれつつ坂道... 続きをみる

  • ちょっと脇道へパート2

    念願だった明日香村へ行きました。 蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳です。熊本県も巨石で作った古墳が あるので、ここは一度は訪れたかったのです。 中にあった石棺を復元した物です。 蘇我馬子が発願し創建された飛鳥寺です。 寺のパンフレットには日本最古の飛鳥大仏とありました。 次の日は東大寺も見学しま... 続きをみる

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  • ちょっと脇道へ

    四月に高野山へ行って来ました。 根本大塔、多宝塔としては日本で最初のものです。 三昧堂 金剛峰寺の中庭です。庭石の配置にも意味があるのでしょう。 奥の院へ 戦国武将,各大名、その他有名な方々が供養されています。 長さ約2キロに渡り両側に立ち並んであります。 行きついた弘法大師御廟,参拝できましたが... 続きをみる

  • 武重の帰還

    余談ですが、 福岡の袖ヶ浦で、父武時と涙の別れをした武重は一路 菊池を目指します。 しかし、今の河内町に、有明海を南下して着いたとき、敵軍に遭遇 してしまいます。 戦いが劣勢になった時、武重は、 奈良金峰山(きんぶせん)の蔵王権現に一心に祈念し、 結果勝つことができました。 菊池に帰れたのです。 ... 続きをみる

  • 珍しい碁盤の目の通りです

    菊池神社の表参道入口です。 隈府町は菊池氏が領主だった頃、京の町になぞらえて、 碁盤の目のような通りにしたと言われています。 菊池武光公騎馬像。後ろの丘に神社があります。昔は城山と呼んでいました。 県下でも有名な桜の名所です。 征西将軍、懐良(かねなが)親王は後醍醐天皇の皇子です。 菊池神社境内か... 続きをみる

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  • 奈良吉野山と隈府町

    上の写真は菊池神社本殿です。 初回の終わりに、実は、隈府と吉野山は思わぬ繋がりがある、と書きましたね。 今日はその話をしましょうか。 菊池氏は平安時代から名前が歴史文献の端々に出てきます。 例えば蒙古襲来の時、 活躍したのは第十代当主武房(たけふさ)です。 博多にまで上陸して来た蒙古軍に攻められ、... 続きをみる

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  • 今夜二回目のUPです

    心の故郷、菊池市隈府はどこに位置してるでしょうか。 皆さん地図検索してみてください。 歴史好き、特に戦国時代好きな方なら、たまらない地形です。 平安時代末から鎌倉時代、室町時代、 その後の戦国乱世を生き抜いてきた菊池氏一族が居を構えた盆地は 阿蘇外輪へと延びる山々を背負い、町の両側には、 深い渓谷... 続きをみる

  • 初めまして

    知人に背中を押されブログを始めました。 熊本の片田舎で鳥の鳴き声と草花に囲まれながら暮しています。 ん~ ”ました” ですかね。あの日 あの夜 大揺れに見舞われるまでは…… 一年が過ぎましたが 忘れられません。忘れません。 でも暮らして来ました。自分でも不思議に思えるくらい。 さあ! これからもう... 続きをみる

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