しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

亀の甲より何とやら・・今川了俊の戦法の妙

菊池神社の石段です。


懐良親王と武光は石段を一歩、一歩登り詰め、やっと大宰府に
征西府軍を設けることができました。


足利尊氏は大原合戦の前年1358年、病死しています。


九州の状況を気にして、遠征しょうとしていたと言われています。


そのあと京都は南朝勢と幕府足利義詮勢の争いが続き、おまけに
武将たちも勢力を競い合う状態でした。

椿の切り口から出た新葉です。つやつやしててきれいです。


征西府軍の統治は、上手く行われました。


武士たちの関心事である、恩賞についての権限を懐良親王が
持っていたからとも言われます。


将軍足利義詮が1367年に亡くなります。


親王と武光はいよいよ東上に乗り出しますが、瀬戸内海で
武家方細川氏、大内氏の水軍によって阻まれてしまうのです。


幕府の将軍には義満がなります。


その重臣、細川頼之により、九州探題に任ぜられたのが
今川了俊なのです。


写真は、なつはぎです。派手さはないけど味のある花です。


了俊は、九州に入るまで、十ヶ月かけて、武光らの攻略を
熟考しました。この時四十四歳、すでに出家していました。


武光も了俊も連戦の名将です。


しかし了俊は武光のように、猛進型ではありません。


まず、息子の義範を豊後の高崎山城に向かわせ、そこに
攻めて来た武光武政父子と戦わせます。


天然の要塞である山城に武光は、五ヵ月間も手こずります。

しかもその間に、弟の仲秋に、肥前の武安(武光甥)の城を
攻撃させたのです。


更に、自分は中国の武家方連合軍とともに、宗像から博多に
侵入しました。


武光に攻めを諦め引き上げさせた、義範も加えて、三方から
の攻撃が始まったのです。


武安は仲秋に敗れ大宰府に下がります。


仲秋と了俊軍は、一気に攻めたて、天拝山、宝満山の城を
打ち取り、大宰府に迫ります。


この了俊の勢いに吊られ、武家方につく者も出て来るという
状況の中で武光勢は戦わざるを得ません。


そして遂に、十二年続いた大宰府征西府は占領されました。


何がいけなかったのか、智略の差なのか、
悔しい思いが込み上げる歴女です。


征西府軍は懐良親王と共に高良山に留まり、本拠としました。

ああ、そして武光はここでついに亡くなるのです。
戦死または負傷死とも言われています。

戦いに明け戦いに暮れた武光の生涯でした。