しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

戦国末期の名将、甲斐宗運は菊池氏の子孫である

1551年、大友宗麟が肥後守護となって以来、菊池家三家老のうち
赤星氏が隈府城に入り、城氏は隈本城に行き、隈部氏は山鹿の永野城
を居城としました。

大友宗麟の配下としての統治です。


しかし、その間、隈部氏と赤星氏は互いの勢力を大きくしようと
争うようになったのです。


両氏の祖先は菊池家のために団結して戦い、一族を守ったのに
時代がそうさせたとは言え、寂しい顛末です。


隈部氏は戦いには勝ったものの、大友氏が後ろに居るので
隈府へ行けません。


が、次第にその大友氏に迫る者がいました。


北部九州に勢力を伸ばした肥前の龍造寺氏、そして薩摩の
島津氏です。


時に1578年、大友宗麟と島津義久の軍が日向の耳川にて戦い
大友軍が大敗しました。

大友氏劣勢と知った肥後の諸将たちは龍造寺氏の勢力下に
入ります。


ま、これは仕方がないでしょ。


隈部氏も龍造寺側に付かざるを得ません、というよりむしろ
赤星氏を攻めるために積極的に近づきました。


しかし矢部の阿蘇氏は大友氏との同盟を維持しょうとしたのです。


これには家老甲斐宗運の意思が働いたものと思われます。


それで、龍造寺氏や島津氏に就いた肥後諸将たちとの激戦が白川に
おいて繰り広げられることになるのです。

大津町辺りの白川です。戦いはまだ川下の熊本市側でした。


宗運は勝ちました。・・やっぱりね。
数々の戦いを勝利した宗運には菊池氏の血が流れているのですよ。


このブログ5月17日に菊池氏の相続争いを書きましたが、
若い時隆と刺し違えて死んだ武本がいましたね。
その子武村は甲斐の国に逃れました。

武村の子重村の時、尊氏に命じられ、大友氏と共に肥後に攻め入り
菊池武重と鞍ヶ岳山麓で戦い敗れて、日向に逃げたのです。

今の五ヶ瀬町に居ついて甲斐氏となりました。


1513年、そこに来たのが阿蘇惟豊です。
兄惟長との争いに負けて逃げて来ました。・・惟長?


思い出してください、菊池に出張っていたあの武経ですよ。
隈府に居づらくなって矢部の阿蘇氏に帰った人です。


そして、いったん譲った大宮司職を返せと言って争ったのです。
何と潔くないこと!


宗運の父、甲斐親宣は惟豊に援軍を出し、惟長は負けて薩摩に
逃げました。


惟豊は阿蘇大宮司職を取り戻し、親宣を家老として迎えたのです。

宗運はこのあと、長年親交のあった相良氏と心ならずも戦さをします。
1581年のことです。


島津氏に降伏した相良義陽は、肥後攻めの先鋒にされ、盟友
宗運と戦うはめになりました。


義陽はすでに覚悟を決めていたのか、負けても退かず臣下と共に
討ち死にをするのです。

友を討たねばならなかった宗運は、その死を悼んだと言われます。


その二年後に宗運は七十五歳で病死し、さらに二年後、攻めて来た
島津氏によって阿蘇大宮司は滅びました。


戦国の世も終りに近づいていたこの頃、
宗運には未来が見えていたのかも知れませんね。


では。