しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

島津大友の争いで漁夫の利?秀吉九州平定

島津氏は阿蘇南郷の高森氏を亡ぼして、肥後を統一しました。
1586年の事です。

それ以前1579年には龍造寺氏を破っています。


豊後の大友氏を攻め落とせば九州平定は目の前です。


島津勢は大軍で入り、豊後の半分を落としました。


堪り兼ねた大友氏は、秀吉に助けを求めたのです。

秀吉は天下統一を目指していたので、早速十二万の大軍で
九州に向かいました。


慌てたのは島津氏、相手が秀吉では敵わないと、豊後、肥後
から引き揚げ、薩摩の守りを固めたのです。

寄らば大樹ということで秀吉軍に従う諸将が続出しました。


秀吉は肥後を南下して薩摩の堺をも超えて、川内まで進み
そこに本営を置きました。

こうなってはもう戦う気力も萎えますよね。
島津一族はついに降伏しました。

九州に来てからわずか二ヶ月、秀吉は労せずして九州平定
を成し遂げました。


そして、肥後国主として佐々成政を任命したのです。

この任命について秀吉は、成政の統治失敗を見越していた
という説もあるのですが・・


秀吉は次の指示を与え大阪に帰りました。


一つ、肥後の国五十二人の国人に先規の如く知行を相渡す
   べき事
一つ、三年検知有るまじき事
一つ、百姓等痛めざるよう肝要の事
一つ、一揆起こらざるように遠慮有るべき事
一つ、上方普請三年免許せしむる事
                    (資料菊池市史)


先日、隈部館跡の項に書きましたように、成政はこの指示を
守らずに、圧政して国衆一揆を起こされてしまいます。


そして、その責任を負わされ切腹したのです。

石段が何故か好きなんです。古いのが特に。

ここを戦国武将たちも上ったんだなあ・・
では。