しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

菊池領のその後、貴方だけにそっとお話します

菊池氏は1520年に本領を大友氏に奪われ二度と戻れませんでした。


大友当主義鑑の弟重治が、菊池義武と名乗り、肥後守護になった
のです。


しかしこの義武、その振る舞いすこぶる悪く、わがままだった
ようで、度々忠告をしていた近臣を手打ちにしてしまったのです。


思い出しませんか?似たような事がありましたよね。


以前、阿蘇氏から来た惟長のことです。


若い惣領菊池政隆を安国寺で自刃させたうえ、素行の悪さから
家臣たちに嫌われ、実家に帰ったあれです。


惟長と同じように、義武も家臣に見放され、隈府城を出ます。

頼った所は人吉相良氏です。


相良氏は、肥後守護から、八代、豊福を安堵してもらっていたので、
義武を八代に受け入れました。         (資料菊池市史)


でもここから、義武の運命が狂い始めます。


豊後では、大友義鑑が臣下に殺されるという事態が起こりました。


大友氏の内情もまた色々あったのでしょうね。


跡を継いだのが、嫡子義鎮(よししげ)、のちの大友宗麟です。


1550年、八代に居た義武に、魔の手がのびます。


隈本城主鹿子木氏が、またも菊池家臣と図って、義武を誘い
菊池家を再興しようと兵をあげたのです。


肥後守護の職が欲しかったのでしょう。

大友義鎮はこれを許しませんでした。


臣下に命じ大軍で、隈本城を攻めさせたのです。


敗れた義武は、わずかの兵と金峰山に逃れ、さらに大友軍が追って
来たので、有馬氏を頼り、島原に渡りました。


四年後、今度はまた相良氏の元に身を寄せ、出家までしたのですが
甥の義鎮は、身柄を引き渡すように相良氏に申し入れます。


再三の使者にも相良氏は断ったのですが、義武がついに覚悟を
決めました。


妻子を相良氏に頼み、豊後に向かい、甥に捕らわれ、自刃
したのです。


自業自得と言えばそれまでですが、なんとも哀れですよね。


さて義鎮は、自ら肥後に入り、諸将を討ち、中北部を全て支配下
としました。


義鎮は肥後守護を手に入れ、菊池家臣だった赤星氏を隈府城に
入れて菊池領を預けたのです。


大友宗麟が最も勢力を誇っていた時代です。


でも明日はどうなるか解らない乱世において、勢力を保持して
行くのがいかに困難であるかは誰でも知っていました。


ということで、終わりそうにないので今日はこれにて。
では。