しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

智略家了俊、次の獲物は・・武朝危うし!

武光亡き後、弟武政は、肥前の味方軍とともに戦いを休むことなく
挑むので、了俊は高良山へ総攻撃をかけることが出来ません。


しかしじっくり時を待っていた了俊、ついに高良山を攻めます。


高良大社の樹齢四百年と言われる楠です。

でも、ここでの攻防戦は1374年です。この楠はまだありません。


武光の死からわずか一年後、了俊の攻撃に武政も高良山を守れず
戦死したのです。

悲嘆に暮れる間もなく、菊池勢は征西府軍として懐良親王と共に
菊池の隈府城へ退いたのです。


この頃には甥の良成親王も後継者として来られていました。


大変な中、菊池氏の家督を継いだのは、弱冠十二歳の武朝でした。
幼名賀が丸と言い、まだ、元服前の少年です。


大丈夫なの?歴女でなくとも、皆そう思いますよね。


でも武朝には、武光の弟武義や、武光の兄の子武安という心強い
後見が居ました。


しかし、了俊の軍は、征西府軍の味方を次々と倒しながら、ついに
山鹿の地に陣を構えたのです。


そしてこの時、了俊は戦う前に降伏させようと、
「賀が丸、もし足利方に付くならば、その所領は安堵させる」と
阿蘇大宮司惟村を通して誘いをかけてきました。(資料菊池市史)


このような誘いに菊池氏は乗りません。
勿論、この降参の勧告をきっぱりと断りました。

菊池氏の意地を見た了俊は、いよいよ討伐を決意します。


実際この時の菊池軍は、隈府本城の他に数ヶ所の砦城しかなく
負けるかもしれなかったのです。


菊池勢の陣地は、菊池平野の真ん中、木野川と内田川が合流した
迫間川がさらに菊池川と合流する所です。


台地には十八外城の一つ台城(うてなじょう)があります。


ここは隈府の西側の、喉元に当たり、死守せねばならない
大事な地点なのでした。


のちに、水島の合戦と言われるこの戦いに、思わぬ展開が
待っています。


それは、今川了俊の失策ともいえるものですが、長くなりますので
今日はこれにて。
では。