しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

幕府の宿敵、菊池氏を追い込む了俊の策の裏表

菊池平野です。右奥の低い丘に台城(うてなじょう)があります。


左奥手前の丸く見える山が了俊が陣を置いた所です。


この狭い場所で両軍は戦うのですが、
了俊は、九州の守護、大友、島津、少弐の三氏にも、ここに
来るように命令します。


しかし、少弐氏は遅れました。ひそかに菊池勢と通じていたのでは
と言われています。


ようやく着陣した少弐冬資と面談の宴を開いた了俊は、酒宴の最中
部下に冬資を暗殺させたのです。


何という・・絶句です。


さらに了俊は、島津氏久を呼び少弐氏を反幕であるから殺したと
告げました。


氏久はこれを確かめ、自陣へ戻り


「冬資がこういうことになっては、九州三人衆は面目を失った。
 頼まれたから冬資を自分が招いたのに、こういう仕打ちを
 受けたのでは、恥ずかしくて、少弐勢がいる所に留まっては
 いられないから帰国する」


と、了俊に手紙を届け、引き上げたのです。


そののち島津氏久は、終生、了俊に味方をしませんでした。
                       (九州太平記)
当然、冬資の子の貞頼は敵に回ります。


1375年、水島の戦いがはじまりました。

島津、少弐軍の引き上げに動揺した了俊軍は、兵の数も兵の士気も
下がり、反撃に出た征西府軍に負けたのです。


了俊の策が裏目に出た戦さでした。


京鹿の子という花です。


隈府征西府では、この頃、良成親王が将軍職に就かれ、懐良親王は
宮方である筑後の矢部入られました。


武朝勢は、良成親王とともに、肥前に出向きます。
南朝方、阿蘇大宮司惟武も付きました。


了俊、大友、大内との連合軍と肥前蜷打(になうち)にて
激戦の末、菊池勢はさんざんに敗れ、武朝は親王を守り
辛うじて肥後に戻りました。


しかし、頼りだった、武義、武安、惟武達は戦死したのです。
武朝、いまだ十五歳の若武者でした。


了俊はこの戦さに中国の大内氏の援護依頼をする策が当たり
勝てたのです。

熊本市小山にある神社の大楠です。枝ぶりが面白いでしょ。


了俊は、武朝勢を追って肥後に攻めて来ましたが、すぐには
菊池に来ません。


今の熊本市に入り、藤崎台に陣を置きました。


今川了俊側は大軍です。勝ち目のない武朝勢も知恵を絞ります。


相手が白川を渡り、託麻原に攻めて来た時、そこここに隠れて
いた武朝勢は一気に攻撃しました。


武朝は負傷しながらも突き進みます。
まるで、祖父武光が乗り移ったかのように戦います。


負けじと、良成親王も駒を陣頭に進められるので、無勢の菊池軍
は奮い立ち、続きます。


まさに、多勢が無勢に追われて、逃げ出し、了俊勢は後退した
のでした。

白川です。
了俊の策はまたまた裏目に出てしまったのでした。


武朝、弱冠十六歳、逞しい武者になりました。


めでたし、めでたし、と言いたいのですが、現実は厳しい。


探題としての役目をきっちりと果たす了俊が、また策を
練り直し、狙ってきました。


でもそれはまた明日の事にいたしましょう。
では。