しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

時の流れに~と、身を任せられない武将達の確執

獲物を狙うサギでしたね。


狙っていたのは九州探題今川了俊、その後ろ盾は室町幕府、そして
狙われていたのは、九州の所領であります。


九州各地は守護の支配のもと、地頭として領地を守っていました。

しかし鎌倉北条は、直轄領を増やしていき、特に蒙古襲来以来
鎮西探題を設置して、そこに北条一門を任命したのです。


すでに守護として治めていた、大友氏、少弐氏、島津氏の三氏は、
所領が次第に少なくなることに不満を抱きます。


時代は南北朝動乱へと移り、探題は守護三氏に南朝方を討伐する
命令を出します。

地頭たちもそれぞれの事情から分かれて戦うこととなりました。


幕府が足利氏に代わっても、相変わらず、三氏は利用され続ける
のです。


三氏は、庶子家もそれぞれ対立して戦うはめになりました。


一貫して、南朝方に付いた菊池氏とは、何度も戦いますが、
時に協力することもあったのは、ひとえに、探題を疎ましく
思っていたからなのです。


今川了俊は、優れた武将ではありましたが、任務遂行のために
どんな策略もいといません。


少弐冬資は殺され、怒って帰った島津氏久は内紛を起こされ
大友氏も兄弟で敵味方となったのです。


さて、了俊は、狙いを武朝に定めます。


先の託麻原の戦いで敗退したので、今度は中国、北九州の兵を
集め、菊池の外城を取り囲み、兵糧攻めにかかりました。


菊池勢は頑張りましたが、1381年、
ついに本城を落とされ、武朝は良成親王と共に落ち延びました。


武朝ら親王軍は宇土から、友軍に守られながら、戦闘を続けて
八代の名和氏のもとに到着するのに十年かかったのです。


宇土から八代まではそんなに離れていません。


その年月を思えば、武朝たちが如何に苦労したのか、偲ばれます。

でも、ここでも了俊は、手を緩めません。


八代の古麓城下に迫って来たのです。


ついに、ついに、1391年
武朝は了俊に停戦を申し入れます。


しかし、命乞いなどではなく、政治的な交渉をしたのか
武朝は菊池に帰り、良成親王は、筑後の矢部に移られました。


この頃京都では、両朝和平統一が画策され、1392年、
朝廷は一つになったのです。


吉野に後醍醐天皇が入られてから、実に五十七年もの歳月が
経っていました。


起きた戦さは数知れず、流された血と落とされた命は、誰が
あがなってくれるのでしょうか。

花はやはり、京鹿の子にしました。


これから菊池氏はどうなるのでしょう?
気になる方は明日もどうぞ・・
では。