しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

菊池武朝申状 前編 侮られてたまるか

北部九州が今大変な事態となっていますが、熊本に居る身としては
一日も早く収まり元の暮らしに戻られることを切に願っております。


では話をさせて頂きます。


あの南北朝動乱はあまりにも長すぎました。

足利将軍義満の時代1392年にやっと合一します。


しかしその動きは10年以上も前から始まっていたのでした。


幕府は早く朝廷を一緒にして権力を確たるものにしたかったし、
南朝方も、戦う武士たちは次第に追い込まれて来て、なかには
妥協派も出て来つつありました。

さて武朝ですが、良成親王と共に勿論バリバリの南朝再興派です。


ですが、武朝は、1381年今川了俊によって隈府を追われ宇土に
逃げ込みました。

その頃でしょうか、一族からも武朝を排斥しようと、南朝に対し
申し立てが行われたのです。


南朝からは勅使がつかわされ、良成親王は懸命に説明されますが
横から告げ口するが者いて、本意が伝わらずじまいになります。

勿論、武朝は憤慨します。
22歳の若惣領は自ら、これまでの菊池一族の朝廷への忠節と、
今回の中傷への反論を書き記して南朝廷へ届けました。


これが世に言う「菊池武朝申状」です。


江戸時代に、隈府正観寺に写本が残されていたのを、渋江松石が
肥後の国学者に読ませて、それが元で江戸に居た塙保己一が
この申状を書物「群書類従」に収めたのです。

塙保己一という人物、学校で習いましたよね。


この申状により南朝廷は武朝の権限を認めたと言われます。


武朝が宇土へ行ってから八代に移るまで10年余りかかったと
以前書きましたが、謎が解けました。


武朝を退けようとした中に八代の名和氏がいたので、宇土にて
朝廷からの返事を待っていたのですね。

宇土市街地が見えます。左側は有明海です。


信任を受けた武朝を名和顕興は八代古麓城に迎えたのでしょう。


それではここにその申し状をご披露・・
としたいのはやまやまですが、長くて皆様お疲れになると思い
ますので、次回に致します。
あしからず。


では。