しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

幸運だった?武光、尊氏派の内紛ありで・・

菊池氏十五代を継いだ武光は、すんなりと惣領に成れた訳では
ありません。


鎌倉の鎮西探題に討ち入り戦死した、武時の十番目の庶子として
武光は城南町豊田荘の地頭職にありました。
嫡流ではなかったのです。


その頃、菊池は内外ともに不安定であり、
十四代武士が大智禅師に頼み、、出家したのです。

合志氏には深川本城を占領されていました。


それを奪回したのが、武光です。
後押ししたのは、阿蘇庶子家の恵良惟澄でした。


武光と惟澄の連合軍は、武家方との戦いに勝ち、そして一族から
菊池の惣領と認められたのでした。


さて、懐良親王の西征府に九州の武士も立ち上がる動きを見せます。


雲上宮です。


これら西征府軍を、大きくさせまいと九州探題、一色範氏も
動きだします。


しかし、この一色氏の存在を良く思わない人物がいたのです。


少弐頼尚です。


少弐氏は源頼朝から派遣された武士で、北条氏の時は最後に探題を
討ちますが、そのあとは、尊氏に付き、宮方との戦さを続けて
いたのです。


それなのに、尊氏は一色範氏を九州に置きました。

上は菊池にある、懐良親王由来の将軍木です。


さて、尊氏派の内紛と言いましたが、これが、実にややこしい。


歴女も困惑状態です。


なるべく解かりやすく書きますが、要するに、この内紛が
武光側には有利に働いたと言いたいのです。


事の発端は、尊氏の弟直義が、北朝天皇に、高師直一族を
幕府から排除するよう申し出たことです。


高師直兄弟は、尊氏にとっても、大事な功労者でしたが
京都では無礼者でした。


直義に対して、宣戦布告した高師直たちに、直義は慌てて、尊氏の
館に助けを求めます。


高師直は、尊氏の館を包囲して、迫ります。


仕方なく尊氏は、直義を出家させました。


この師直と直義の対立抗争が、尊氏兄弟にも影を落として、互いに
刃を交えることになろうとは・・


師直たちを倒して中枢に戻った直義と、尊氏の溝は埋まるどころか
益々深くなったのです。


北朝、南朝を巻き込んでの二人の抗争は、やがて、九州にまで
飛び火してしまいます。


直義の養子直冬(実は尊氏の庶子)が九州探題となり、行き場を
失った一色範氏が、なんと宮方に付いたのです。

久留米高良山、高良大社から見た筑後平野と筑後川です。


話はまだ続きますが、いったん休憩しましょうね