しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

懐良親王、隈府征西府までの紆余曲折

後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王が九州に向けて、吉野宮を
出られたのは、七歳でした。

親王をお守りしたのは公家の五条頼元たち十二名です。


その前にすでに、受け入れのための先遣隊として、肥後、薩摩
日向に、公家方が送られていました。


わずか七歳とはいえ、天皇の皇子です。
遣わされた従者の心労は如何ばかりかと察せられます。


四国松山の沖の忽那島には、三年間滞在されました。


武家方の多い九州ですから、さらに三年かけて、やっと
薩摩の宮方の城に入られたのです。


その途中、後醍醐天皇の崩御と遺言の綸旨が密使によって届きます。


天皇は最後まで、望みを持たれ、五条頼元を深く信頼されて
いたのです。


薩摩に先遣として入っていたのは、天皇の侍従,三条泰季(やすすえ)
でした。


宮方と武家方が入り乱れて戦っていた薩摩で、懐良親王は、実に
五年もの間、留まられたのです。


頼みとされていた、阿蘇大宮司惟時の態度がはっきりしないため
に動けなかったのでした。

写真は菊池の北宮阿蘇神社です。現在阿蘇神社は地震のため、国宝の
楼門はじめ、本殿も倒れました。一刻も早い再建をお祈りしています。


さて薩摩守護,島津貞久は、親王のおられる谷山城を攻めようと
しますが、各地で戦さをしている武士たちは、なかなか集まりません。


その内に、熊野水軍が宮方の援護に来たのです。
これが最後の好機と見た親王軍は、海路で脱出されました。

朝日が上ろうとしています。
懐良親王の薩摩船出も成功して、いよいよ、九州平定への
道筋が見え始めてきました。


親王この時、二十歳になられたばかり、肥後の宇土に到着されて
菊池武光ら、宮方の武士たちの出迎えを受けられ、心落ち着かれた
ことでしょう。


そして、陸路二十日後に、隈府に入城され、やっと
征西府を設けられたのです。


今は、うっそうとした木々のなかにありますが、当時は、周りを
全て見下ろせる場所だったのです。


いわゆる、生きた「錦の御旗」を奉じた武光は、これから
百戦錬磨の武将として、名を馳せることになります。

城山から隈府町を眺めてみました。
遠くは金峰山の峰まで見渡せます。その向こうはもう有明海です。

では、また。