重朝は統治力不足と言われてますが・・
菊池氏二十一代を継いだ重朝ですが、若いからと言い逃れられない
事態が起こります。
応仁の乱です。
将軍義政は、細川方に付くよう命じますが、重朝は対する大内方として
兵を動かします。
この乱は、ひとくくりに誰と誰との戦いと言えない所があって
歴女もお手上げです。
結局、重朝は、この戦いで目指していた、父が失くした筑後を
取り戻す事は出来ませんでした。
その他の肥後内での領地争いにも、守護職として対処しなければ
なりません。
八代、宇土、人吉の各氏の争いには、阿蘇氏も加わり、重朝は
ついに兵を出しました。
一度目は勝ちますが、二度目の幕の平合戦では敗れてしまいます。
人吉相良氏が勢力を伸ばし、重朝の守護としての統制力の弱さを
露呈してしまいました。
しかし重朝は、菊池の文教には功績をのこしました。
重朝公座像は、数十年前に通っていた頃には正門を入ってすぐの
場所にありました。
さて、戦乱の続く京都をはなれ、九州行脚に出た南禅寺の高僧
佳庵禅師は、菊池を訪れました。
かねてより、学問盛んなうわさを聞いて来たのです。
重朝、および家臣たちは、その高僧の教えに学び、習得しました。
重朝達の作った詩は、京都五山の僧たちも感嘆させたと言われます。
文武両道に励んだ、為邦重朝父子の墓は並んであります。
では。
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