しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

菊池氏若惣領を悩ませる、暗躍の輩

重朝亡き後、家督を継いだのは、またもまだ十二歳の宮菊丸です。

1492年、肥後守に任ぜられ、菊池武運(たけゆき)と名乗りました。


所で、重朝は生前、人吉の相良氏の娘(為続の孫)を武運の妻と
するよう取り決めをしていました。


しかし、重朝死去により、重臣たちは、婚約破棄を申し入れた
のです。


怒った相良為続は、八代豊福城にて兵をあげました。
政略のあてが外れたのでしょう。


武運は援軍を率いて豊福城を攻め、次第に追い詰めます。


加えて背後からは、薩摩方面からの援護もあり、相良勢は人吉に
退きました。

豊福城跡です。平地の小高い場所です。


ほっとする間もなく、今度は宇土氏が反逆します。
城主為光は、祖父為邦の弟になります。


為光は菊池家臣の一部と企み、武運の留守中に、不意を突き
隈府城を攻め落としました。


何と卑怯なやり方でしょう!


武運はすぐに戻り、隈府玉祥寺原で、激しい戦いをしたのですが
頼みの菊池重安ほか、多くの戦死者が出て敗北しました。


命からがら玉名まで逃げ延びた武運は、有馬家を頼り、島原に
渡ったのです。


そして名を能運(よしゆき)と改めました。

二年後、能運は菊池の老臣たちに立てられ、兵をあげ隈府奪還の
ため、玉名に上陸します。


やはり菊池氏は能運を見捨てはしなかったのですね。


玉名で大叔父為光と戦いますが、今度は負けません。


為光は逃げだし、宇土の大見で自刃しました。
隈府に居た息子と孫も殺されました。


一族間の争いは身を裂かれる思いがします。
家臣たちもどちらかについて戦わねばならない訳ですし・・


その上に、能運はこの戦いで負傷してしまいました。


隈府城に戻れたものの、病床から起き上がる事なく死去します。
二十三歳の若さでした。


家臣の愚かな行為が若い主君の命を散らせたのです。


菊池重安の子政朝に当主を譲ると遺言しました。
しかし、能運の死で、菊池の直系は絶えることになるのです。

能運の墓は、年月を経て崩れかけていたのを、江戸時代末1857年に
郷士たちにより修理されました。


    「たけかりし名も古塚の苔の下に
          うつ(ず)もれてよりいく世へにけん」
と傍の石碑に刻まれています。


永田長左衛門直行殿、お礼を言います。
良くぞ残してくださいました。
           
では。
            (実を申せばこの道も通学路でした)