しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

尊氏と、義貞の、合戦また合戦

足利尊氏と新田義貞は源氏の系統です。血統から見れば
義貞の方が、本家筋となります。


どちらも、北条政権の時に苦杯を舐めています。
源氏の世に戻したい、との思いは同じだったでしょうね。


でも、二人の進む道は次第に分かれて、気が付けば真っ向から
対峙する仲となっていました。


写真は栴檀(せんだん)の木です。今、どこも花盛り、
周りを見渡せばきっと見つかりますよ。
花言葉は意見の相違です・!


尊氏は鎌倉に居ても、天皇への「反逆者」と言われるのだけは
嫌いました。


そのため、京に居る義貞を「君側の奸」、
おそばづきのわるものと名分を立て、尊氏に心を寄せる諸国の
武士たちを集めていったのです。


京都の新田勢は、上将軍に尊良親王、総大将は義貞です。
武重、弟武吉ら菊池一族は先鋒軍として入りました。


箱根において、いよいよ、戦いの火蓋は切られます。


武重は活躍します。「太平記」には、


「菊池肥後守武重、箱根戦の先駆けして、敵三千余騎を遥かの
峰へまくり上げ、坂中に楯をつき並べて、一息ついて
堪えたり」とあります。


こんなに,萱の生い茂る原野だったのでしょうか?


武重はこの時、自ら考案した槍を使って戦いました。
手頃の青竹の先に小刀を結びつけた物です。


槍隊による槍ぶすまを作って進撃しました。
攻めるも良し守るも良しの手強い戦法と言えるでしょう。


地本隈府では、菊池千本槍として有名ですよ。


この刀剣は、刀鍛冶師延寿家の作った物と承認されています。

武重は直義の軍を退けましたが、足柄に向かった
搦め手軍は竹の下において尊氏に敗れます。


更に、新田軍の後陣を受けていた大友貞載が足利軍に
味方します。


歴女も憤慨しましょう! どういうこと?


総崩れとなった新田勢は、退却して行きます。


この時、しんがりを任されたのは熱田大宮司の一隊と、
鷹の羽の旗をひるがえす武重の軍三百余騎です。


しんがりとして、しっかり働きました。


義貞が虎口を脱して京都に引き返すことができたのは
まったく武重らの力によると「太平記」は褒めたたえています。


聖護寺の山門です。


武重の活躍する時代はまだまだ続きます。


皆さまどうか最後までお付き合いくださいね。


では、山つつじを見ながらきょうは、これにて。