しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

現代にも通じる、見極めと思い切りが大事

筑後川から見た耳納山と右に高良山です.


当時は、おそらく河原と湿地帯だったでしょうか。


以下、述べます決戦の様子は、菊池市史に掲載されているものです。


時は1359年の夏、武光たちはまず、詳細な情報を元に計画を
立て、少弐軍が渡河攻撃するのを待ちますが、警戒して
出てきません。


そこで、次の計画を立てました。


決死隊五千人で、地理に詳しい者の先導で、夜半、川を渡り、
味坂の敵に夜襲をかけること。


他、各軍は夜のうちに河畔に着き、決死隊の夜襲と同時に
川を渡り、攻撃を開始すること。


さて、決死隊は予定通り進みますが、敵の抵抗はありません。

少弐軍は、前日、武光自らが渡河点を偵察したことを知り
軍義を開きました。


諸将らは、武光の勇猛果敢な戦いぶりを説明して、今の陣地は
平地であり、到底守りきれないと言い、大原付近まで退く
ことを進言したのです。


頼尚は大友氏時と相談して、それぞれ、山隈原と大保原に退却
すること、各渡場の軍は暗くなってから小郡野に退却することと
決めました。


この決定に、子の少弐忠資は反対します。
味方の兵を隠して、敵をおびき寄せ、半分くらいが渡河した時
攻め込み、全滅させる「半渡りの戦法」を主張したのです。


しかし、頼尚は、聞き入れず、退却を始めます。
日暮れまでに、各渡場の監視部隊も続々退却するありさまでした。


そこへ着いたのが、夜襲隊です。


下西味坂、東味坂付近の敵は残らず退却したと、武光
報告します。


夜が明けて北の方を見ると、少弐軍は陣形を整えていました。


北への道は三ヶ所切られています。


宝満川の対岸に布陣した頼尚軍の前には、沼地があり、武光
容易には、兵を動かせません。


十六日間の滞陣となりました。


この間、武光は例の起請文を、旗に付け頼尚に見せつけます。

頼尚は今更ながら、あの事を悔いたことでしょうね。


さあ、武光は更に調べた情報で、次の決断をくだします。


八月六日、夜半より、武政(武光の長子)ら三百人の兵は
宝満川に沿いあがり、横隈に渡り敵の背後に潜み待つ。


本隊が闇にまぎれて敵の前線に近寄り、ときの声をあげたら
火を放ち声をあげて暴れまわり、大騒動を起こすこと。


東方の名和勢らは夜明けとともに、大友勢を猛烈に攻めて
北方に撃退したのち、すぐに西に回って、大保原の頼尚本陣を
攻撃すること。


本隊は夜明けまでに小郡付近の敵を包囲して喚声をあげる。


夜襲隊は、その声を聞き、敵本陣が乱れるほどの激烈な
攻撃を開始すること。

果たして作戦の成果や如何に・・


ちょっと、一息させて頂きます。

我が家のベロ出しミータです。親バカですみません。