しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

よりあひしゅのなひたんの事

よりあひしゅとは寄合衆のことであり、なひたんは内談です。


下の写真は寺尾野の上手のほうです。

菊池武重が、一門がこの時代を生き抜いていくためには、どうしたら
いいのかを、重臣たちと話し合いをしたのです。

のちに、菊池家憲とも言われるものです。


三か条からできています。


第一条は、天下の御大事(南北朝のこと)については
最後は惣領が決めることとあります。
つまり、菊池氏は南朝方を支持するということです。


第二条は国務の政道は内談で決めた事を尊重して、たとえ
惣領の意見でも、認められなけらば捨てるとされています。


第三条は、訴え事は禁ずるというものです。
       (実物はもっと詳しく書かれています)


他の地でも、一族間の内輪もめで、結束がうまくいかずに
衰退していく例が多かったと思われます。


そして、聖護寺の大智禅師の教えを尊び、学ぶように
諭しています。


大智禅師は、武重が精神的な師と仰ぐひとでした。
仏門に帰依し、寂山と号しました。(資料菊池市史)


武重は1341年に病没しています。34歳の若さでした。


戦さに明け暮れた日々を過ごした武士たちの一生は、本当に
太く短いものなのですね。


隈府町の正観寺には武光公の墓所がありますが、やはり亀蛇の上に
墓石が乗っています。


武光公墓碑は、江戸時代に、水神祭事などを行っていた渋江親子に
よって建て直されました。


楠木正成の墓型を参考にしたとされますが、その正成の亀蛇墓は
水戸光圀が建てたのです。


そしてその武光の墓所を模して,1816年に、武重の墓は造り変えられ
たのです。


亀蛇と呼ばれる空想上の生き物を台座にした墓は目覚ましい光徳を
積んだ人だけに許されるものだとか。


感激している歴女です。

せめて花でも手向けましょう。
では。