しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

歴女の、そこが知りたいパート3菊池武房

今日は菊地氏十代当主武房(たけふさ)の話でしたね。


最初の蒙古襲来は文永の役(1274年)と呼ばれています。

さて、博多湾西方、百道原(ももじばる)の浜辺に上陸した
蒙古軍に対し、日本側から合戦の例によって
戦さ始めの鏑矢を射放ちますが、
かたや蒙古軍は太鼓をたたき、どらを打ち大声をあげます。


日本側の馬たちがその異様さに驚きます。


敵方の矢は雨のごとくに飛んで来ます。


戦法が全く違うのです。
やあ、やあ我こそは・・と名乗りをあげる暇もありません。


毒矢、鉄砲などの武器を使いながら
ひたすら突き進んで来るのです。


武士たちはかきまわされ後方へ退くばかりです。


あえて進んで打ち合う者もなく
たたずむばかりの日本の陣中、・・


この時響いてきたひずめの音!
二百三十騎余りの騎馬武者が砂をけたてて、敵陣目がけて突撃
して行きました。


先頭は肥後の御家人、菊池次郎武房その人です。


「二百三十騎にて押し寄せ、さんざんにかけちらし、上、下に
なり、取り重なって云々・・」(八幡愚童記)


手勢の者も打たれるなか武房は、敵の首を取り付け、ゆうゆうと
引き上げてきたのです。


これには、さしもの蒙古軍もおそれをなし,陣を立て直そうと、二手に
分かれて鳥飼の浜まで退却しました。

しかし、そこは四万の蒙古軍、夕方になるころまでには再び
勢いをつけて、博多の町まで攻め込みました。


そして沖の浜の本陣も破られた日本軍は力尽き果て、大宰府まで
後退せざるを得なくなったのでした。


あはれ、博多の町は戦火に包まれ、逃げ惑うのは残された庶民
でした。


運よく山や谷に逃げ込んだ人たちも、夜が明けても
どこにも行く所などなかったのです。

博多を占領した蒙古軍も、死力を尽くした戦いに疲れきっています。


日本軍の抵抗が思いのほか強かったせいです。


用意していた矢も無くなり、夜には雨と風が強くなっていました。


たぶん、兵たちは船に乗り込み待機していたでしょう。
でもこの雨風はただの雨風ではありませんでした。
暴風は波をけたたせ、大船団は翻弄されます。
陸の近くの船などは吹き戻されて、断崖の岩石に
叩き付けられ砕け散りました。


夜に来る台風ほど怖いものはありません。


夜明けを待って蒙古軍は
退散して行きました。(資料菊池市史)


辛くもなんとかしのげたのは、運だけではないと思います。



閉めはやはり、花にしました。では。