歴女の、そこが知りたいパート4 役の後
二度の蒙古襲来は、大変な死闘の末に終着しました。
とくに二回目の敵軍は
船の数四千四百、兵士は十四万という大軍団でした。
写真は竹崎季長の城跡碑です。社会科で習いましたよね。
「蒙古襲来絵詞」勇ましい姿でした。
菊池市史には彼と武房のやり取りとか、さきがけの功の働きぶりなどが
書かれていて、興味深いです。
しかし、その文永,弘安の役後、菊地氏を含め九州御家人に対しての
恩賞は満足のいく物ではなかったのです。
合戦に参加した肥後の御家人達十七名のうちき菊池一族は五名に上ります。
武房の功績の報告を受けた京都からは甲冑一揃えを賜ったと記されています。
他の御家人とて同じく、所領の恩賞など無いに等しかったでしょうね。
命をかけての戦いと襲来のための防塁作りの対価は誰が払ってくれる
のでしょう。
各地から恩賞請求の訴訟をされた幕府は困り果て、ついに
訴訟打ち切りをしたのです。
元を退却させても降伏ではなく、賠償金も、もらえなかったと
言われてますが、それだけでしょうか
歴女のため息が聞こえてきそうです、やるせなさに・・
麦秋の俵山です。
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