しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

歴女の、そこが知りたいパート2、蒙古襲来!

承久の乱で武家社会を確立した北条氏は、幕府の基本法として
貞永式目(御成敗式目)を制定します。


乱から十年経っていました。


政局は安定し、全国的に開墾もすすみ
質実剛健な鎌倉文化が栄えたのです。

しかし、のちに元となる蒙古が、再三にわたり日本に対して
入貢を迫る国書と使者を送ってきます。


実に七回も、
幕府はこれを黙殺しました。


使者達は日本への遠征は無意味で大きな浪費であると、
王フビライに報告しています。


そりゃそうでしょう、玄海灘の荒海は危険で対馬を通れば反撃に
会うのですから。


でも、フビライは諦めませんでした。


大国の野望とは怖ろしいものです。

1266年から1274年の使者の往来のあいだに、
時の執権北条時宗は襲来に備えて、
九州の御家人を主力に防備体制を整えました。


そして、いよいよ蒙古襲来の日が来てしまいます。


九百隻の船団に四万の大軍を引き連れてやって来ました。


まずは,対馬を襲い、次は壱岐の島へ侵攻し、守っていた我が軍は
全滅します。


さらに敵は、平戸、鷹島などの沿岸を荒し、甚大な
損害を与えたのです。(資料菊池市史)


襲来から十四日後にはついに博多湾にまで来て上陸しました。


菊地氏当主は十代武房(たけふさ)です。


この武房と一族郎党が目覚ましい大活躍をするのですが
それは明日に取っておきましょうね。

菊池神社の本殿です。