しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

歴女の、そこが知りたいの!

前日書きましたね、


鎌倉幕府のやり方を朝廷は黙って見ていたのかと。

この花は都忘れという名前です。


承久の乱で佐渡へ流された順徳上皇はこの花を見れば
都への思いを忘れられると話されたとか。


花言葉はしばしの慰め、別れ、です。


さて承久の乱とはどんな事件だったのでしょう。


この頃、朝廷では後鳥羽上皇による院政が敷かれていました。

知人の庭と脇道の野ばらです。新緑が目に優しく映ります。


では、話に戻ります。
鎌倉幕府になって、各地に守護,地頭が置かれて以来
公家や天皇家が所有していた大きな荘園でも
年貢等をめぐって地頭との紛争が起きるようになりました。


加えて、後鳥羽上皇は北条氏が申し出た次の鎌倉殿の任命を
認可しません。


上皇は日頃から北面武士と西面武士を設置して軍事力を
強化していました。


歴女は考えましょう!倒幕を企んでおられたのか?


それ以外にありませんよね、朝廷内でも親幕派の公家は
一掃されます。


そしてついに院宣がくだされるのです。


北条義時を討て!と

北条氏が朝敵となれば、味方する守護、地頭、御家人は
相当数にのぼると思われたのでしょう。


上皇挙兵に鎌倉方は驚きますが、御家人達は団結します。


北条政子による説得が決め手となったとも言われています。


その鎌倉勢の進撃が予想以上に早かったため、上皇側は
総崩れとなりました。


宮方についた武将達は、討ち死にあるいは,自刃して,
後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ
そして順徳上皇は佐渡へ配流されたのです。


さあ、我が菊池氏八代当主能隆はどちらに味方したと思いますか?。
地方武士は朝廷に対する求心性が強かったのです。


だから、勿論、宮方として戦いました。


菊池氏の本領数ヶ所がまたもや没収されてしまいました。

これはエゴの木です。びっしりと花が咲いてます。
木の下は桜に負けないくらいのきれいな花筵でした。
では。