しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

鎮西探題急襲の何故?と結末

武時は表向きは、幕府体制側の御家人として、地方の領地紛争などで
幕府が下した判断を、命令、実行する立場にありました。

でも、前にも書いたように、実情は領地を減らされ、蒙古襲来の
恩賞もほとんど無く、一家を支えていくのに苦労していたのです。

そこに、ひそかに届いたのが後醍醐天皇の皇子の護良親王(大塔宮)
令旨(りょうじ)です。
朝廷の方でも皇統が次第に二つに分かれて来ていた時代
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒そうと考えられていました。


この頃、天皇を後押ししていたのが楠木正成であります。


この正成を討つため、幕府は援軍を送ります。
足利尊氏や新田義貞などです。
しかし、足利氏、新田氏は共に元は源氏です。


平氏の出の北条氏から、再び源氏の世にしたいという望みを持って
いたのでしょう。
後醍醐天皇からの要請に応じます。


菊池竜門ダムです。奥の山が八方ヶ岳です。


楠木が隈府町をみおろしています。


さて、九州に話を戻しましょう。
護良親王(もりなが)の令旨は
守護の大友氏(豊後),少弐氏(筑前)らにも届きます。

武時は、この両者と挙兵の密約を交わしていたと思われます。

鎮西探題、北条英時は、九州の動揺を防ぐために、
各地の御家人を博多に呼び寄せますが、


武時はこの招集に遅れ,探題方より叱責を受けたのです.


もしかして、挙兵の計画が知られたのかと焦った武時は、翌日
早朝に兵を動かします。
密約を交わしていた大友氏、少弐氏に急ぎ使いを出しますが,
両者とも、土壇場で変心して応じません。

武時は怒りますが、もう、あとへは引けません。この時
武時と共に行動したのは阿蘇大宮司,阿蘇惟直という武将です。


北宮阿蘇神社のすぐ前に菊池川が流れています。


合戦の様子は「博多日記」の中に詳しく書かれています。

それによると、武時勢は博多の町の所々に火を放ち天皇の軍である
と示す錦の御旗を掲げて、松原口、辻堂方面から、姪の浜にある
探題館を目指しました。

探題方もかねてから戦さの用意は整えておりました。
各地に火の手があがるのを見て、武時勢を追います。
櫛田浜で両軍は衝突しますが武時軍の勢いは強く、
これを突破し,探題に向って突進していきます。


探題英時は防戦の一方で、まさに、自害しようとした時、
大友,少弐の軍勢が背後から攻めてきて、
探題方に付き形勢は逆転するのです。


手勢はもとより少数です。それまでの戦いで手間取り、早朝襲撃の
好機を逃してもいました。

武時と息子三郎頼隆らは壮烈な切りあいの末、館までは入れず、
ついに犬射馬場で打ち取られてしまいます。

残る菊池勢わずかに七十騎、深手を負いながらも,塀を乗り越えて、
中庭で激闘の末、全員討ち死にをしました。

武時は菊池を発つとき、男子は孫まで連れて行ったと言われて
います。
逃げ落ちた者は、途中で追手に打たれました。


この戦いでからくも逃げ延びたのは、嫡男武重と阿蘇惟直のみ
でした。


探題、北条英時は武時らの首を犬射馬場にかけました。


夜はその首を取られないように、邸中に置いたと言われています。


まさか、二ヶ月後に、味方した、大友、少弐に攻め込まれて
自刃することになろうとは夢、夢・・

あちら、こちら、で挙がった倒幕の勢いで、ついに鎌倉幕府は
倒れます。諸行無常・・でしょうか。
では。