しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

泥沼のような所領争い、皆、懸命の計り事

持朝の時に菊池氏は、肥後筑後の守護として勢力を保っています。


嫡男為邦は十六歳で家督をつぎました。
兄弟もそれぞれ、領地を与えられています。

しかし、争いがまた起こります。


将軍足利義政が、筑後守護の半分を大友氏に与えたからです。


肥後における為邦の力の低下を見抜いたためと言われますが
各地でおこる小競り合いを為邦が押さえることが出来なかった
からでしょうか。


為邦は失った所領を奪い返すために、大友氏と高良山で戦い
ますが、敗れます。


そして残りの筑後所領も取られたのでした。


この事が原因なのか、なんと為邦の次男が、益城の城で兵を
あげたのです。


誰が後ろで糸を引いていたのかは分かりません。


そして、因果応報なのか、長男重朝が弟を攻め落としたのです。


このあと為邦は家督を重朝に譲り隠居しました。
まだ三十七歳の若さです。


持朝と祖父兼朝のすれ違い、叔父たちの最期のこと,などなどが
そうさせたのかも知れませんね。

亀尾城のすぐ下に碧巌寺を建て仏門に入りました。

今は荒廃していますが、庭園は少し面影を残していました。

この真上に亀尾城があるのですよ。

さて重朝十七歳で二十一代当主になります。


この時期京都では、細川氏と山名氏の争いが起き
やがて、国内を巻き込む応仁の乱に発展していきます。


重朝も菊池家のためにはどちら側に付けば有利になるか
を決めなければなりません。


まだ十代の若者には荷が重すぎませんか?

でも十四歳で武時、十五歳で武光、十二歳で武朝、十五歳で持朝
父為邦が十六歳で家督を継いでいます。


当時としては、もしかしたら普通だったのかも知れませんね。


誰の当主の時も無難に乗り越えた訳ではありませんから
それだけ、取り巻きの庶子家や、重臣たちの強い支えがあった
ということでしょう。


ではまた。