しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

菊池氏の結束は永遠には続かなかった・・

菊池武朝は、十二歳で家督継承して以来、一貫して南朝宮方として
戦い続けました。


懐良親王と良成親王とを奉じての戦さに誇りを持ち幕府に対抗して
来れたのは、菊池一族の固い結束があったからです。

長子兼朝が十八代を継ぎ、父武朝の遺志をも受け継ぎました。


幕府では義満が死去、義持が将軍となります。


途中、1419年、朝鮮半島からの対馬攻撃があった時には
軍勢を率いて、探題に協力して、敵を撃退しました。


その他は、反幕府の立場を貫きます。

七城町の公園でまた、シラサギに会いました。


一族をまとめ、探題方と戦い続けた1431年に兼朝は家督を
長子持朝に譲ります。

何故でしょうか?
病気になったのでもなく、勿論、亡くなったのでもないのですよ。


家督の移動の理由は、推察出来る資料がないと市史に書いて
あります。


残したくない訳があったのか、知られては統率が乱れるからか。


兼朝は、芦北佐敷に隠居して、十三年後に亡くなります。


持朝が家督を継いだのは十五歳でした。


それでも当主としての振る舞いは求められます。


周りは相変わらずの領有権争いが続いていました。


その中で、将軍となった義教は、大友氏、大内氏の争いの
大内氏に加担するよう持朝に要請したのです。

時の流れ、水の流れに逆らうのは難しいことでしょう。
菊池氏が幕府の命に従うのは初めてのことでした。


持朝は勝って筑後守護職を与えられます。
領地は広がりました。

でも、父に隠居させ、弟忠親を自刃に追い込み、さらに別の弟
とも争いを起こし、相良氏を頼って逃げた弟を殺すように依頼して
いるのです。


持朝を悪く言ってるのではありません。
仕方がなかったのでしょう。


他の氏族は皆同じことを繰り返しています。


あの尊氏と直義でさえ、最後は争い弟を死なせてしまいました。


一枚岩だと見えてても、いつの間にか、小さな亀裂が入るもの
なんですね。


持朝は三十二歳で死去しました。


兼朝が隠居地で亡くなった、二年後のことです。

しかし、これ以降、菊池氏の内紛は続いて行くのであります。
誠に遺憾ではございますが・・
では、これにて。