しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

三度目もあった、惣領への背信の愚

昨日は政隆自刃の話でしたね。まことに、痛ましい限りです。


さて、その阿蘇氏の菊池武経ですが、素行が良くなくて、次第に
家臣たちにも疎まれるようになってきました。


そこで自ら身を引き、矢部の阿蘇家に帰ったのです。


何のために菊池に出張ってきたのか、これこそ惣領の器量が無いと
いう事ではありませんか?

家臣たちが次に当主に迎えたのは、十二代武時の孫の子孫で託麻郡
に居た宮松丸です。


1511年、二十四代当主菊池武包(たけかね)として肥後守護と
なりました。


しかしここでまた、勢力強大な大友氏が割り込みをしてきます。


大友義鑑の弟重治を菊池家に入れるため、菊池の家臣たちに
圧力を加えて、そそのかしました。


「当主武包は愚か者で、役に立たない人物である」と。


ね!二度あることは三度あったでしょ。


1520年、武包は菊池を追われました。


付き従った僅かな家臣たちと、三年後に玉名にて兵をあげますが
大友軍にやぶれ、島原に逃げのびました。


そして、1532年、菊池に帰ることなく島原で亡くなったのです。
墓所さえ不明です。

紫陽花も泣いています。


四百六十三年間続いた菊池においての菊池氏一族の統治は
終わりました。


いつも言ってますが、時の流れは無常で、水の流れのように
留まることなく、人の思いとは裏腹に過ぎて行きます。

これまでただ菊池氏のみを焦点に話してきましたが、
菊池一族だけがあの時代を生き抜いたとは、もとより思っては
いません。


九州各地で、いえ全国各地で、自分たちの一族を、領地を、
また領民を懸命に守った武将は、たくさんいます。


皆さんの故郷にもきっといらっしゃったと思いますよ。


では。


明日からは何の話をしましょうか・・
                  (考え中、考え中)