しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

2017年6月のブログ記事

  • 菊池川を遡って・・でも鮎じゃないのでムリ・・

    ここは菊池川が山あいを抜け出て、平野に流れ始める所です 同じ場所から川下を見ると、ね、広いでしょ。 今日は、この川の上流にあると聞いた可愛い滝を目指しました。 途中立ち寄ったのがここです。 菊池氏は山越えして襲ってくる大友氏に備えて砦城を何か所も 作っていました。 道をかなり進むといよいよ渓谷らし... 続きをみる

  • どうしても書いて置きたい十四代武士のこと

    菊池武士(たけひと)は勇将武重と猛将武光との間に惣領に なった人です。 武重が亡くなり、武士が当主になって菊池氏は混乱状態に なりました。 征西府将軍懐良親王が九州に西下されるので、お迎えする為の 準備をせねばならない時期です。 しかも武家方が対抗するために絶え間なく攻撃をして来ます。 尊氏は菊池... 続きをみる

  • 肥後三轟水、宇土轟水源は城跡のすぐそばです。

    宇土古城の上からは宇土半島の峰々がすぐ近くに見えます。 その麓に轟水源があるのです。 犬の散歩に来られていた方が、地震のあと水量が増えたようだと おっしゃってましたが、あれだけ揺れれば水脈への影響もある かも・・ 時々行く西原村の水源です。 ここも相変わらずの湧水量で安心しましたが、近くの堤と 橋... 続きをみる

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  • 国指定の中世宇土城跡を見に来ませんか?

    今回じっくり見学して来ましたが、正直驚きました。 とにかく説明板を読んでください。 千畳敷にある建物跡地です。 頂上部からは、360度見渡せたでしょう。 今は木がありますが・・ この城跡は古墳時代にも建物があったのでしょうか? 土師器や箱式石棺も出ていますし・・ 何世紀にも渡り活用されていたという... 続きをみる

  • もっと早く行けば良かった大慈禅寺です

    この山門を見た時、どうして傷つく前に、お参りに来なかったのか 初めて訪ねたお寺の痛々しい姿に自分を責めました。 仁王像も地震で倒れてたそうです。 本堂もご覧の通り修復中です。 御本尊もたぶん・・ 大智禅師の師である寒巌義尹は順徳天皇の皇子だったのですね。 国宝である梵鐘はもちろん外されてましたが、... 続きをみる

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  • 一休さんみたいな幼少期、名僧大智禅師

    今日は、菊池氏が心の師と仰いだ大智禅師への興味津々です。 禅僧の生涯が如何なるものであったのか紐解いてみましょう。 大智は熊本の不知火町の農家に生まれますが、子供の頃から 仏に興味を持っていて、坊さんになりたいと言い出したのが 七歳の時です。 川尻町の大慈禅寺の寒巌義尹和尚は連れて来られた大智を見... 続きをみる

  • 菊池氏の終焉で、空の巣症候群に陥っています

    今年は空梅雨か?と思うほど雨が降らなくて紫陽花もチリチリ に渇いてたけど、やっと雨が降り出しました。 さて、菊池氏は二十四代で途絶えてしまいました。 まだ話たいことがあるのに、こちらまで気分が落ち込んで・・ 菊池氏ロスになってしまいました、どうしましょう・・ 今日はこれまで載せてない写真を紹介しま... 続きをみる

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  • 京都五山にならった菊池五山が大変なことに・・

    「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色・・」 写真の木は夏椿です。沙羅の木とも呼称されています。         夏椿が儚さを誘うから、そう呼ばれるようになったそうです。 さて、あの送り火で有名な京都五山というのはご存知ですよね。 実は菊池にもあったのです、五山が。 菊地武光公の時、... 続きをみる

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  • 島津大友の争いで漁夫の利?秀吉九州平定

    島津氏は阿蘇南郷の高森氏を亡ぼして、肥後を統一しました。 1586年の事です。 それ以前1579年には龍造寺氏を破っています。 豊後の大友氏を攻め落とせば九州平定は目の前です。 島津勢は大軍で入り、豊後の半分を落としました。 堪り兼ねた大友氏は、秀吉に助けを求めたのです。 秀吉は天下統一を目指して... 続きをみる

  • 戦国末期の名将、甲斐宗運は菊池氏の子孫である

    1551年、大友宗麟が肥後守護となって以来、菊池家三家老のうち 赤星氏が隈府城に入り、城氏は隈本城に行き、隈部氏は山鹿の永野城 を居城としました。 大友宗麟の配下としての統治です。 しかし、その間、隈部氏と赤星氏は互いの勢力を大きくしようと 争うようになったのです。 両氏の祖先は菊池家のために団結... 続きをみる

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  • 菊池領のその後、貴方だけにそっとお話します

    菊池氏は1520年に本領を大友氏に奪われ二度と戻れませんでした。 大友当主義鑑の弟重治が、菊池義武と名乗り、肥後守護になった のです。 しかしこの義武、その振る舞いすこぶる悪く、わがままだった ようで、度々忠告をしていた近臣を手打ちにしてしまったのです。 思い出しませんか?似たような事がありました... 続きをみる

  • 武敏公の墓所を訪ねて大分へ・・

    先日大分県の院内町へ行って来ました。目的は菊池武敏公の墓参です。 阿蘇外輪山のミルクロードを通って行きました。 残念ながら、霞がひどく(PM2.5?)阿蘇五岳は見えませんでした。 小国町から大分玖珠町に出ました。 玖珠町の山は面白い形が多いです。 この山が伐株山(きりかぶ)と言って頂上に城がありま... 続きをみる

  • 三度目もあった、惣領への背信の愚

    昨日は政隆自刃の話でしたね。まことに、痛ましい限りです。 さて、その阿蘇氏の菊池武経ですが、素行が良くなくて、次第に 家臣たちにも疎まれるようになってきました。 そこで自ら身を引き、矢部の阿蘇家に帰ったのです。 何のために菊池に出張ってきたのか、これこそ惣領の器量が無いと いう事ではありませんか?... 続きをみる

  • 菊池氏の家臣は何故主君を守れないのか!

    菊池能運が負傷死したのち、遺言により、菊池政朝が家督を継ぎます。 父重安は、能運と共に玉祥寺原で戦い亡くなっています。 祖父為安は二十代為邦の弟でやはり戦死しています。 当主になり政隆と改名しました。 十四歳で肥後守護職に就きます。 そこを阿蘇大宮司惟長が狙っていました。 豊後の大友氏が扇動したと... 続きをみる

  • 菊池氏若惣領を悩ませる、暗躍の輩

    重朝亡き後、家督を継いだのは、またもまだ十二歳の宮菊丸です。 1492年、肥後守に任ぜられ、菊池武運(たけゆき)と名乗りました。 所で、重朝は生前、人吉の相良氏の娘(為続の孫)を武運の妻と するよう取り決めをしていました。 しかし、重朝死去により、重臣たちは、婚約破棄を申し入れた のです。 怒った... 続きをみる

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  • 重朝は統治力不足と言われてますが・・

    菊池氏二十一代を継いだ重朝ですが、若いからと言い逃れられない 事態が起こります。 応仁の乱です。 将軍義政は、細川方に付くよう命じますが、重朝は対する大内方として 兵を動かします。 この乱は、ひとくくりに誰と誰との戦いと言えない所があって 歴女もお手上げです。 結局、重朝は、この戦いで目指していた... 続きをみる

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  • 国指定史跡、細川のお殿様も見に来た隈部館

    山鹿市の山あいに隈部館跡があります。 菊池氏の三家老の一つ隈部家の居城でした。 奥に金峰山がかすかにみえます。 菊地氏滅亡後、三家老の間で争いが起き、そこに大友氏、次に 島津氏そして秀吉の軍が攻めて来たのです。 わずか二ヶ月で平定した秀吉は佐々成政に肥後を治めさせます。 ここに庭園がありました。山... 続きをみる

  • 泥沼のような所領争い、皆、懸命の計り事

    持朝の時に菊池氏は、肥後筑後の守護として勢力を保っています。 嫡男為邦は十六歳で家督をつぎました。 兄弟もそれぞれ、領地を与えられています。 しかし、争いがまた起こります。 将軍足利義政が、筑後守護の半分を大友氏に与えたからです。 肥後における為邦の力の低下を見抜いたためと言われますが 各地でおこ... 続きをみる

  • 菊池氏の結束は永遠には続かなかった・・

    菊池武朝は、十二歳で家督継承して以来、一貫して南朝宮方として 戦い続けました。 懐良親王と良成親王とを奉じての戦さに誇りを持ち幕府に対抗して 来れたのは、菊池一族の固い結束があったからです。 長子兼朝が十八代を継ぎ、父武朝の遺志をも受け継ぎました。 幕府では義満が死去、義持が将軍となります。 途中... 続きをみる

  • 菊池外城の一つ、亀尾城に行って来ました

    武朝が隈府を落ち延びるまで、了俊勢は、二年もの間この城に 陣を置き、じわりじわりと兵糧攻めをしたのです。 やはり、石段をのぼります。 七城町が見渡せます。右奥の緑色の細長く見えるのが台城跡です。 奥に隈府町が見えますよ。ほんとに、目の前まで来てた了俊は、 猫が獲物をいたぶるように、二年もここに居座... 続きをみる

  • 時の流れに~と、身を任せられない武将達の確執

    獲物を狙うサギでしたね。 狙っていたのは九州探題今川了俊、その後ろ盾は室町幕府、そして 狙われていたのは、九州の所領であります。 九州各地は守護の支配のもと、地頭として領地を守っていました。 しかし鎌倉北条は、直轄領を増やしていき、特に蒙古襲来以来 鎮西探題を設置して、そこに北条一門を任命したので... 続きをみる

  • 幕府の宿敵、菊池氏を追い込む了俊の策の裏表

    菊池平野です。右奥の低い丘に台城(うてなじょう)があります。 左奥手前の丸く見える山が了俊が陣を置いた所です。 この狭い場所で両軍は戦うのですが、 了俊は、九州の守護、大友、島津、少弐の三氏にも、ここに 来るように命令します。 しかし、少弐氏は遅れました。ひそかに菊池勢と通じていたのでは と言われ... 続きをみる

  • 智略家了俊、次の獲物は・・武朝危うし!

    武光亡き後、弟武政は、肥前の味方軍とともに戦いを休むことなく 挑むので、了俊は高良山へ総攻撃をかけることが出来ません。 しかしじっくり時を待っていた了俊、ついに高良山を攻めます。 高良大社の樹齢四百年と言われる楠です。 でも、ここでの攻防戦は1374年です。この楠はまだありません。 武光の死からわ... 続きをみる

  • 亀の甲より何とやら・・今川了俊の戦法の妙

    菊池神社の石段です。 懐良親王と武光は石段を一歩、一歩登り詰め、やっと大宰府に 征西府軍を設けることができました。 足利尊氏は大原合戦の前年1358年、病死しています。 九州の状況を気にして、遠征しょうとしていたと言われています。 そのあと京都は南朝勢と幕府足利義詮勢の争いが続き、おまけに 武将た... 続きをみる

  • 大宰征西府を追い詰める武将現る、それって誰?

    サギが漁をしているところだと前日言いましたよね。 獲物をじっくりと狙っているのです。 そ、狙われていたのは征西府なんです。 どうやら魚を川から獲ったみたいですね。 大原合戦で勝利した武光達は、大宰府に征西府を置くまでに、 実に二年もの月日を要しました。 菊池征西府軍は、頼尚の勢力がまだ残る肥前の各... 続きをみる

  • 激戦に散った、武士、雑兵への鎮魂

    小郡市役所のすぐ横に公園があり、碑が建てられています。 五万騎塚は、久留米市宮ノ陣にあります。 過去における数多の合戦において、武将の死は歴史書に残されますが、 名もなき兵たちは戦場に屍が放置され、故郷へ帰る道もわからないまま 魂はさまよい続けます。 当時の人々はそれを哀れみ、敵味方なく葬り、塚を... 続きをみる

  • 大原合戦、慌てず騒いで、勝ちに行け!

    さて、武政率いる夜襲部隊、闇夜にまぎれて、川を渡り、 父の言いつけ通り三隊に分かれて、待っていたのですが、不覚にも 敵兵に発見されました。 止むを得ません、武政隊は、火を放ちながら、大きく、ときの声を あげて突入しました。 ところがこれが功を奏し、狭い所にひしめいていた少弐軍は 大部隊のため大混乱... 続きをみる

  • 現代にも通じる、見極めと思い切りが大事

    筑後川から見た耳納山と右に高良山です. 当時は、おそらく河原と湿地帯だったでしょうか。 以下、述べます決戦の様子は、菊池市史に掲載されているものです。 時は1359年の夏、武光たちはまず、詳細な情報を元に計画を 立て、少弐軍が渡河攻撃するのを待ちますが、警戒して 出てきません。 そこで、次の計画を... 続きをみる

  • 戦略、戦術に加え瞬時の対応も、武将の心得とせよ

    九州の真ん中辺りの盆地を領地にしていた武光、祖先の宿願成就を 目の前にして、士気は上がります。 でも一応は宮方に服した九州の諸将たちも、足利義詮󠄀のたびたびの 教書に、まず大友氏時が従い、その大友氏にさらに付く者が 出てきました。 少弐頼尚もその一人です。 大友氏とひそかに連絡を取り、兵をあげま... 続きをみる

  • 九州の武家方は、どっちもどっち、でも必死?

    さあ、続きを始めましょうね。 探題職を直冬に取られた一色範氏は、宮方に付きました。 宮方の菊池勢は、戦うこと無く、一色勢を味方に出来たのです。 これを受けて、大友氏、島津氏も同調する動きをみせます。 宮方征西府軍は、北九州へ向けて出立します。 一色範氏は陣を出して征西府軍と合流しようとしますが そ... 続きをみる

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  • 幸運だった?武光、尊氏派の内紛ありで・・

    菊池氏十五代を継いだ武光は、すんなりと惣領に成れた訳では ありません。 鎌倉の鎮西探題に討ち入り戦死した、武時の十番目の庶子として 武光は城南町豊田荘の地頭職にありました。 嫡流ではなかったのです。 その頃、菊池は内外ともに不安定であり、 十四代武士が大智禅師に頼み、、出家したのです。 合志氏には... 続きをみる

  • 懐良親王、隈府征西府までの紆余曲折

    後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王が九州に向けて、吉野宮を 出られたのは、七歳でした。 親王をお守りしたのは公家の五条頼元たち十二名です。 その前にすでに、受け入れのための先遣隊として、肥後、薩摩 日向に、公家方が送られていました。 わずか七歳とはいえ、天皇の皇子です。 遣わされた従者の心労は... 続きをみる

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  • 勢返しの滝は、武者返しだった↑↑

    昨日、紹介した滝はやはり,勢返しの滝でした。 迫間川の両岸が最も狭くて、ここを通るしかなかった昔は、交通上 の要でした。 番所という地名もあり、細川藩が足軽を配置していたそうです。 もう一度見て見ましょう 滝は小さいけど滝つぼは深そうですね。 何故、勢返しなのか? そう、軍勢を引き返させたからです... 続きをみる