しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

池田屋で近藤勇と斬り合った志士高木元右衛門

懐良親王ゆかりの将軍木の隣地にわいふ一番舘があるのですが
そこに、知る人ぞ知る高木元右衛門の銅像が立っています。
    (知らない人は知らないの中に私も入るのですが・・)
居ましたねぇ菊池にも、剣豪が。
ただの剣豪ではありませんよ。学問にも秀でていたのです。

元右衛門は1833年菊池市深川に生まれました。


菊池観光協会のホームページによれば祖先は菊池氏に仕えていたそうです。
代々軍人笛方の家柄で、菊池氏滅亡後は細川氏に召し抱えられました。

父甚之助が武芸にも優れていたせいで、元右衛門も武道に励み
剣術、柔術、居合術、槍術を修め、門人も多数いたそうです。


山鹿流兵学を宮部鼎蔵に学び、学問は菊池市赤星の高山蘭痴の教えを
修得しました。


時代は幕末、元右衛門は次第に尊王攘夷の志が強くなっていきます。


そして肥後勤皇党の志士として京や長州で活動をしていくのです。

わいふ一番舘で貰ったリーフレットにはこう書かれています。


1864年6月5日の夕方、長州藩士等20数名と肥後勤王党宮部鼎蔵、
松田重助、高木元右衛門たちは京都池田屋において密談をしていました。


ここに情報を聞きつけ踏み込んで来た新選組と切りあいになり
元右衛門は近藤勇と刃を交え傷を負わせたのです。
松田重助は斬殺、宮部鼎蔵は自刃しました。


脇差と短刀で応戦した元右衛門は、激しい斬りあいののちに守護職の
兵3千人の囲みをも突き破り、長州邸に駆け込みました。


世に言う池田屋事件ですね。
同年この騒動が原因で禁門の変(蛤御門の変)が起こりました。


京都近郊に集結した長州勢に対して、朝廷と幕府は会津、桑名、薩摩に
警備を命じます。


そして7月双方の軍勢が衝突するのです。


元右衛門は池田屋事件の報復を兼ねて参戦したとあります。
長州藩兵の先鋒として両刀振りかざして切り込みました。


しかし会津藩兵が放った銃弾が彼の体を貫通しました。
死を覚悟しての参加であったと書かれています。


辞世の歌 討ち入りの朝
    太刀刀 ぬきはなちたる 今日よりは 
               治る御代の 始とそしれ
辞世
    屍(かばね)をば 都の苔に 埋め置きて
               わが大君の まもりとやせむ
                    (菊池市ホームページ)


明治維新が4年後に迫っていた時の早世でした。


国状を憂える思いは誰も皆同じであったはずなのに、何故いつも
人間は血で血を洗う争いをしないと次へと進めないのでしょうか。

深川にある菊池初代則隆公の墓です。
元右衛門が子供の頃にはここにお参りに来たかもしれませんね。


最後に「菊池むかしむかし」から元右衛門の挿話をひとつ、ふたつ。


高木家は代々笛を吹く家柄で元右衛門も笛の名人でした。
その笛の音はすさまじく、屋根の瓦も吹き落とすほどだったとか。
「瓦落としの笛」とみんなはよんでいたそうです。


またある時、虚無僧がやって来て尺八をふいたら、元右衛門は
すぐに台所から味噌を持ってきて与えました。
尺八の曲が「みそくれ」だったからです。虚無僧もすっかり
感心したという話です。


身長は185㎝もあり、骨格たくましく剛力で豪放、任侠にも
厚く、酒が好き・・だった菊池のサムライでした。


では。