しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

渋江家の由来と逸材を辿ります

菊池市隈府が第二の故郷だと言いながら、菊池に多大な功績を
残された渋江家を危うく素通りするところでした。


♪あの日~あの時~あの場所で~♪
雨がそぼ降る中、ふと目に留まった神社、何か気になって車から
降りて写真を撮りました。


ちょうどその時渋江宮司さんが車で来られたのです。
偶然は必然、本当にそうですね。

これより以下は菊池市史(下巻)編纂の中からのご紹介となります。

渋江家の祖先橘島田丸(麻呂?)が勅許により天地元水神事を
行うようになって、さらに6代後の好古には藤原純友追討の功労で
伊予国を賜りました。


好古よりの7代目は鳥羽天皇より「公」の字を賜り、公光と名のり
代々実名に「公」を付けることが許されました。

公光の孫公業の時、伊予から肥前長島荘潮見に移り、この地の
地頭として勢力を伸ばします。


そこには今渋江氏の氏神、潮見神社があります。


公業の嫡子公村から渋江と名のるようになったそうです。
肥前渋江氏の祖です。


公村より5代後の公治までは足利氏の勢力下にあり、その5代目の
公勢の時には城を築きますが、その子公親が戦さに敗れ、公親の子
公師、公重兄弟も逃げ落ちます。


1559年兄弟は肥前に戻るも有馬氏との戦いで、弟公重が戦死、公師は
敗走して、のちは肥前の大村候に仕え代々重職として栄えたそうです。


さて戦死した公重ですが、嫡子公成がおり、肥後菊池の西迫間に
移り住み、肥後渋江氏の祖になります。


どうして菊池に来たのかは書いてないのでわかりません。
でも菊池の民にはこの上ない幸運であったと思いますよ。

これは迫間川にかかる石橋です。


西迫間に落ち着いた公成は家伝の勅許水神祭事を始めます。
1634年公成の子公通は氏神、天地元水神を隈府町に移し、代々隈府に
定住しました。


公通の子公実を経て公春、そして公豊と受け継がれていきます。


肥後渋江氏の伝統の水神祭事祈禱は、本来の家柄の良さもあり
次第に人々の厚い信頼を得ていきます。


渋江家の代表的な神事は、国家安全、五穀成熟、水田行事
新田埋立工事、馬疫退除、河童難退除等々ですが、最も重視されて
いたのは、水に関する祈禱で渋江家の水乞祈禱は必ず神験があると
信じられていました。

公豊は水神祭事と共に私塾教育を始めます。


この公豊こそ、のちの渋江紫陽その人です。


学問好きの少年紫陽は「稀世の天才」といわれた水足博泉に学び
博泉死後は、山鹿の加々美鶴灘に教えを受けます。


そして30歳の時(1748)に私塾「集玄亭」を創立します。
これは藩学「時習館」の設立より6年も早いのです。


その45年の間に学んだ人たちは300人以上になると言われます。


紫陽の学問は古学です。
藩の程朱学とは異なるのですが藩の学者たちは紫陽を訪ねて来ては
「城北の隠君子」と言って尊敬したそうです。


そして渋江松石は紫陽の叔母の孫になるのですが、子のいない紫陽の
養子になり、また子弟でもありました。


松石は父に学び、また時習館の藪孤山の門弟にもなります。
しかし学問は古学を守り通し、孤山の程朱学に傾くことはなかったと
言われます。


父の跡を継いで松石も私塾を開きます。


多くの門弟を育て、世に送りだしました。
また著書や写本なども多くありますが、最も有名なものは
「菊池風土記」です。


松石には四人の男子がおり、神職と学問とを分けてそれぞれに伝え
明治に至りました。

菊池市史にはもっと詳しく書いてあるのですが、長く成り過ぎる
ので勝手にかいつまんでお話しました。


何度も読み返しましたが、渋江紫陽、松石とその周りの人たちの
ひたむきな学問への姿勢には本当に頭が下がります。


さあ、明日も暑さに負けずに励まねば・・


では。