しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

2017年5月のブログ記事

  • ご利益あるかな? 不思議な神社です。

    竜門ダムのすぐ足元に、不思議なお社を見つけました。 奥に見える白いコンクリートはもうダムです。 この鳥居をくぐって下へおります。 ずっと下から、川のせせらぎが聞こえます。 え、神龍?・・一瞬ドラ〇〇〇〇ルのことが頭を・・ 信徒の方ごめんなさい。 由来の深い神社なんですね。 すぐ下を、迫間川が流れて... 続きをみる

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  • よりあひしゅのなひたんの事

    よりあひしゅとは寄合衆のことであり、なひたんは内談です。 下の写真は寺尾野の上手のほうです。 菊池武重が、一門がこの時代を生き抜いていくためには、どうしたら いいのかを、重臣たちと話し合いをしたのです。 のちに、菊池家憲とも言われるものです。 三か条からできています。 第一条は、天下の御大事(南北... 続きをみる

  • 武重の奮戦、奮闘は続くのですが・・

    武重が兵をあげた寺尾野城は、のちに大圓寺となり、現在は 神社となっています。 入口に印塔が建てられていました。 神社のすぐ後ろは崖がせまっています。 石垣が昔は城塞だったことを教えてくれます。 武重は戦い続けます。 一色氏を追い払ったあと、弟八郎武豊を筑後に進出させます。 武豊は探題、一色氏の軍勢... 続きをみる

  • 尊氏の杞憂的中、武重の旗あげ

    竜門ダムと八方ヶ岳です。 この下方に、武重が兵をあげた寺尾野城がありました。 1337年の二月に武重が「兵を挙げた」という急報は博多の九州探題 一色範氏のもとに入ります。 探題方にすれば、京都に居るはずの武重が、菊池に帰って来たことは 驚きであり、また重大事でした。 武重の帰国に、九州の宮方は奮起... 続きをみる

  • 密かに託された、武重の役目

    東上を続ける尊氏勢の船団は、七千隻はあったと言われます。 九州に下るときに、中国、四国の味方の領主たちに、 武具や兵糧米を用意しておくよう頼んでいました。 途中から足利軍は、陸と海に別れて進みます。 備中福山城を守っていた菊池武重たちを直義軍が攻めたてます。 比較にならないほどの軍勢に囲まれた武重... 続きをみる

  • 尊氏が九州に居たのは、わずかにひと月だった

    この切り株は松の木です。 山道を歩いていたときに、ありました。 固い岩肌にしっかりと根を張っています。 その姿に、思わずシャッターを押しました。 今、菊池氏に関するお話を書いているせいか、この切り株が 領地、領民を守るために、懸命に戦った武将たちと重なって 見えたのです。 こんなに頑張って生きてき... 続きをみる

  • 多々良浜の戦い、武敏,千載一遇の好機を・・・

    武敏が、少弐妙恵を討って二日後が、この戦いの日となります。 尊氏は、九州にに着いてすぐに、この知らせを聞き、博多へ 進軍します。 しかし装備は不十分なままでした。 「太平記」には、足利方の武士の中には馬も持たず鎧も付けて いない者がいたとあります。 武敏はこのことも見越して、武具を集めていた少弐の... 続きをみる

  • 尊氏、九州へ、落ち延びたのではない?

    箱根の戦いに勝って勢いづいた尊氏勢は、 敗走する義貞勢を追って京都に猛追してきます。 義貞は宇治と山崎の間、大渡に陣を構えます。 勿論、武重も陣内におります。 両軍の主力が死力を尽くしての戦いですから、お互い一歩も譲らず 攻防は三日間も続きました。 時期は冬、正月です。 尊氏は京都に来るまでの間に... 続きをみる

  • 尊氏と、義貞の、合戦また合戦

    足利尊氏と新田義貞は源氏の系統です。血統から見れば 義貞の方が、本家筋となります。 どちらも、北条政権の時に苦杯を舐めています。 源氏の世に戻したい、との思いは同じだったでしょうね。 でも、二人の進む道は次第に分かれて、気が付けば真っ向から 対峙する仲となっていました。 写真は栴檀(せんだん)の木... 続きをみる

  • 動乱のきっかけは、尊氏の鎌倉入り?

    写真は秋の七草の一つ、葛(くず)です。今は成長期で 縦横無尽につるを伸ばしているのです。 どこどこまでも、つるを伸ばして、木や草にからみ付き 巻き倒してしまいます。 見ながら、つい、思ってしまいました。尊氏みたいだなあ、と 後醍醐天皇の新政の時、足利尊氏が受けた恩賞は 武士の中では、楠氏、新田氏を... 続きをみる

  • 歴女も感服、側近の諫言、泣けます

    今日はちょっと菊池氏を離れたお話です。 側近とは、後醍醐天皇の側近、万里小路藤房(までのこうじふじふさ) のことです。 功労者でもあった護良親王(大塔宮)を天皇は追放しました。 親王は後に、拘置された土牢で足利直義によって殺されるのですが、 その時、「尊氏よりも主上がうらめしい」と怨みの言葉を残さ... 続きをみる

  • 建武の新政、武時の無念は晴らされたのか?

    菊池神社本殿です。武時公は主祭神のひとりとして祀られています。 北条氏が滅びると、後醍醐天皇の新政が始まりました。 まずは、手柄を立てた武将たちへの恩賞でしょうね。 天皇が設けた中央の役所に、記録所、武者所、雑訴決断所、恩賞方と あります。公家にしても、武家にしても、恩賞が一番の関心事だった のは... 続きをみる

  • 鎮西探題急襲の何故?と結末

    武時は表向きは、幕府体制側の御家人として、地方の領地紛争などで 幕府が下した判断を、命令、実行する立場にありました。 でも、前にも書いたように、実情は領地を減らされ、蒙古襲来の 恩賞もほとんど無く、一家を支えていくのに苦労していたのです。 そこに、ひそかに届いたのが後醍醐天皇の皇子の護良親王(大塔... 続きをみる

  • 武時挙兵が北条氏滅亡のきっかけ?

    武時とは、先日書いた、あの十四歳で家督を継いだ十二代当主 菊池武時公のことです。 その武時が、蒙古襲来以後に、博多に置かれた、 幕府の出先機関である鎮西探題に討ち入り 壮絶な戦死をとげたのです。 しかし、これがきっかとなり、足利尊氏らが兵をあげ、鎌倉幕府 は滅びました。 そして世は南北朝動乱の時代... 続きをみる

  • ちょっと一服、歴女の好きな隈府町2

    さあ、隈府町の散歩を続けましょう。 昔、住んでたころにあった物、無かった物、はたまた、あったのに 気付いてなかった物など、ふむふむ、むふむふ、苦笑いの連続です。 咲いてましたよ!チャンチンもどきの花。初めて見ました。 もとい、高校生の時には見たかもしれないですよね。(笑) 昔は無かった道路です。あ... 続きをみる

  • ちょっと一服、歴女の好きな隈府町

    さあ、これから、菊池氏が華々しく歴史の表舞台に登場してきますよ。 でも、今日は、ひと休み、ひと休み。 お天気もいい事だし、隈府町をぶらり散歩してみましょう。 ここは御所通りです。 歴史を感じますね。 隈府一番館では菊池氏の墓所展をやってました。 この通りを真っ直ぐに行けば、菊池神社の前に着きます。... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート5、あはれ時隆17歳

    各地の御家人たちは新たな所領の増えない中、庶子のため分割相続を しなければなりません。 本領地は狭くなるばかりです。 一族間の内紛は起こるべくして起こりました。写真がぼやけててすみません。 菊池氏は武房に八人の男子があり、皮肉なことに、 嫡男隆盛が家督を継ぐ前に亡くなります。 そこで隆盛の嫡男であ... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート4 役の後

    二度の蒙古襲来は、大変な死闘の末に終着しました。 とくに二回目の敵軍は 船の数四千四百、兵士は十四万という大軍団でした。 写真は竹崎季長の城跡碑です。社会科で習いましたよね。 「蒙古襲来絵詞」勇ましい姿でした。 菊池市史には彼と武房のやり取りとか、さきがけの功の働きぶりなどが 書かれていて、興味深... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート3菊池武房

    今日は菊地氏十代当主武房(たけふさ)の話でしたね。 最初の蒙古襲来は文永の役(1274年)と呼ばれています。 さて、博多湾西方、百道原(ももじばる)の浜辺に上陸した 蒙古軍に対し、日本側から合戦の例によって 戦さ始めの鏑矢を射放ちますが、 かたや蒙古軍は太鼓をたたき、どらを打ち大声をあげます。 日... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいパート2、蒙古襲来!

    承久の乱で武家社会を確立した北条氏は、幕府の基本法として 貞永式目(御成敗式目)を制定します。 乱から十年経っていました。 政局は安定し、全国的に開墾もすすみ 質実剛健な鎌倉文化が栄えたのです。 しかし、のちに元となる蒙古が、再三にわたり日本に対して 入貢を迫る国書と使者を送ってきます。 実に七回... 続きをみる

  • 歴女の、そこが知りたいの!

    前日書きましたね、 鎌倉幕府のやり方を朝廷は黙って見ていたのかと。 この花は都忘れという名前です。 承久の乱で佐渡へ流された順徳上皇はこの花を見れば 都への思いを忘れられると話されたとか。 花言葉はしばしの慰め、別れ、です。 さて承久の乱とはどんな事件だったのでしょう。 この頃、朝廷では後鳥羽上皇... 続きをみる

  • 歴女のばら祭り

    熊本カントリーパークでばらの香に包まれて、英気を養って 来ました。慣れないブログ作りに、少々疲れぎみでしたから。 さ、充分癒された所で、いざ、出陣です。 今日のテーマは領地の安堵です。 頼朝の九州施政は、きめの細かいものでした。 平氏の地盤であったためです。 菊池氏の場合も平氏方として (壇ノ浦の... 続きをみる

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  • 歴女になるなら・・パート3

    新しくなった、八女市岩戸山歴史文化交流舘を見学しました。 岩戸山古墳の石人,石馬は有名ですよね。 後日改めてご紹介致します。 なんと!受付のパンフレットの中に「南北朝動乱のドラマ」の 冊子がありました。 菊地武光とともに南朝の皇子達を守り 戦った八女の武将達、でもまだ詳しくは書けません。 これから... 続きをみる

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  • 歴女になるなら・・パート2

    菊池川流域を治めることになった初代則隆は、本拠地を 川に近い小高い場所にきめます。 ん?丘なんですか?山じゃなくて? 何故でしょうねぇ、 世は平安時代ではありましたが、地方豪族達は着々と 財力と武力とを蓄えていたのです。武力は理解できますが 財力はどうやって増やしたのでしょう。 歴女は考えましょう... 続きをみる

  • 歴女になるなら・・

    ♪~悪女にな~るなら♪~月夜はおよしよ♪~素直になりすぎ~る♪~ では、歴女になるにはどうすればいいのかしら? まず故郷の歴史に目を向けてみるのもひとつの手だとおもいます。 今、菊池氏一族の話を載せていますが、調べれば、調べるほどに 興味が湧いてくるのです。 菊地の隈府を拠点に繰り広げられる 一代... 続きをみる

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  • ブラタモリ風に歩いて見たら・・

    築地井出を見に行きました。 この上流に菊池川からの取水口があります。 お薬師さんの足元を流れ、 本当の所は解りませんが、清正公が作ったと子供の頃に聞きました。 昔はまだ水量が多く澄んでいて冷たく、水底には 川藻がゆらゆらと揺れ動くさまは、子供心にも畏怖の念さえ抱く ほど美しい井出でした。 田園が井... 続きをみる

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  • 菊池氏初代則隆公

    則隆公は藤原則隆として、太宰府天満宮領赤星荘園の荘官 として赴任したと言われています。 姓を地名から取って菊池則隆と称したそうです。(菊地市史) 則隆は領民のため、ひいては荘園繁栄のため,各村に鎮守社、寺を 建立しています。 裏側は急な凝灰岩の崖で、横穴に石仏が祀られています。 ひとつだけ人が入れ... 続きをみる

  • チャンチンもどき・・?

    この高校に通っていた時もここに立ってたんですね。こんな大きな木に 気付かなかったなんて・・、言い訳がましいんですが、 当時とは校舎も違うし、他にも大きな楠が何本もあって、 校門入口からは両側にヒマラヤ杉がずらっと並んでたんですもの。 ごめんなさい。 元体育館跡地から貴重な遺跡が見つかってたんですね... 続きをみる

  • 西郷隆盛の祖先は菊池氏

    あの西郷隆盛ですよ! 木々が邪魔して正面から撮れませんでした。 西郷隆盛は子供たちに菊の一字を付けているそうです。 羽根木八幡神社。 いやあ、びっくり、びっくりですね。さすが菊池氏! そして、もうひとつお見せしたい所があります。 これは年賀塚古墳です。まわりは削られて小さいです。 昭和天皇もご覧に... 続きをみる

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  • 隈府町に行って来ました

    今日は五月五日、数十年ぶりの、祝日のお出かけです。 去年の地震が、人生を変えたようですね。みんなが遊ぶ時に働いて ましたから。新緑の中、行きましたよ隈府へ! 築地井出(ついじいで)があります。この道を歩いて小学校へ 通いました。 今日は菊池神社へご案内いたします。前にも載せましたが、もう一度 お付... 続きをみる

  • もう一度吉野山

    隈府町の事を書くには菊池氏は欠かせませんし 菊池氏の歴史を書くにはやっぱり南北朝時代が欠かせないのです。 どの時代も、領地を懸命に守った菊池氏の当主達、時には拡大、 時には、縮小されつつ、数百年に渡り、菊地を治めたのです。 朝廷を二派に分かつほどの後醍醐天皇のお気持ちとは? 山桜に酔いしれつつ坂道... 続きをみる

  • ちょっと脇道へパート2

    念願だった明日香村へ行きました。 蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳です。熊本県も巨石で作った古墳が あるので、ここは一度は訪れたかったのです。 中にあった石棺を復元した物です。 蘇我馬子が発願し創建された飛鳥寺です。 寺のパンフレットには日本最古の飛鳥大仏とありました。 次の日は東大寺も見学しま... 続きをみる

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  • ちょっと脇道へ

    四月に高野山へ行って来ました。 根本大塔、多宝塔としては日本で最初のものです。 三昧堂 金剛峰寺の中庭です。庭石の配置にも意味があるのでしょう。 奥の院へ 戦国武将,各大名、その他有名な方々が供養されています。 長さ約2キロに渡り両側に立ち並んであります。 行きついた弘法大師御廟,参拝できましたが... 続きをみる

  • 武重の帰還

    余談ですが、 福岡の袖ヶ浦で、父武時と涙の別れをした武重は一路 菊池を目指します。 しかし、今の河内町に、有明海を南下して着いたとき、敵軍に遭遇 してしまいます。 戦いが劣勢になった時、武重は、 奈良金峰山(きんぶせん)の蔵王権現に一心に祈念し、 結果勝つことができました。 菊池に帰れたのです。 ... 続きをみる

  • 珍しい碁盤の目の通りです

    菊池神社の表参道入口です。 隈府町は菊池氏が領主だった頃、京の町になぞらえて、 碁盤の目のような通りにしたと言われています。 菊池武光公騎馬像。後ろの丘に神社があります。昔は城山と呼んでいました。 県下でも有名な桜の名所です。 征西将軍、懐良(かねなが)親王は後醍醐天皇の皇子です。 菊池神社境内か... 続きをみる

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  • 奈良吉野山と隈府町

    上の写真は菊池神社本殿です。 初回の終わりに、実は、隈府と吉野山は思わぬ繋がりがある、と書きましたね。 今日はその話をしましょうか。 菊池氏は平安時代から名前が歴史文献の端々に出てきます。 例えば蒙古襲来の時、 活躍したのは第十代当主武房(たけふさ)です。 博多にまで上陸して来た蒙古軍に攻められ、... 続きをみる

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