しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

菊池氏の家臣は何故主君を守れないのか!

菊池能運が負傷死したのち、遺言により、菊池政朝が家督を継ぎます。

父重安は、能運と共に玉祥寺原で戦い亡くなっています。
祖父為安は二十代為邦の弟でやはり戦死しています。


当主になり政隆と改名しました。
十四歳で肥後守護職に就きます。


そこを阿蘇大宮司惟長が狙っていました。
豊後の大友氏が扇動したと言われています。


菊池の家臣たちを、またもや巧みに取り込んだのでした。


当主は愚かで、将としての器量が無いとして、重臣たちは
連判誓書を阿蘇家に送ったのです。


「惟長殿をお迎えする由を申し定め、今後は二心なく相つとめ
申すべきこと」
と、八十四名が名を連ねています。(資料菊池市史)


これを受けて惟長は隈府に来て、菊池武経として家督を
継いだ、いえ、もぎ取ったのです。


策略とさえも言えぬこの暴挙に、政隆は隈府を追われます。

それでも政隆を匿ってくれる家臣や武将がいて、次第に増えてきました。


武経と大友氏はこれを知り、兵を出し、南関において
政隆軍と激突したのです。


でも敗れました。
捕らえられた政隆たちは、阿蘇氏の本拠、矢部(熊本)に
護送されることになりました。


しかし途中、菊池の旧臣が待ち受けていて、政隆を助けだした
のです。


そして近くの久米安国寺に籠ります。

それを武経らが取り囲み、またも戦うのですが勝ち目はありません。


政隆と家臣は安国寺の中で共に自刃しました。


皆さん、これって有りですか?


政隆に落ち度があったとは到底思えません。


十九歳のあたら若い命を散らせた罪は償わせなければならない。
そうでしょ?

この墓は江戸時代に建て直されたものです。


亀蛇の墓は楠木正成墓でしたよね、菊池氏の亀蛇墓は、武光
武重、武朝とこの政隆の墓だけです。


さて次はいよいよ菊池氏最後の当主のお話です。


二度あることは三度あると言いますよね・・
では。