しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

尊氏が九州に居たのは、わずかにひと月だった

この切り株は松の木です。


山道を歩いていたときに、ありました。
固い岩肌にしっかりと根を張っています。
その姿に、思わずシャッターを押しました。


今、菊池氏に関するお話を書いているせいか、この切り株が
領地、領民を守るために、懸命に戦った武将たちと重なって
見えたのです。


こんなに頑張って生きてきたのに、切られています


無念の思いを抱きながら、敵に首を討ち取られた武士のように思え、
涙しました。


写真はシモツケという野草です。


さて、多々良浜で辛くも勝った尊氏は、戦いの功労者に対して
手厚い恩賞を与えます。


そのあと、味方する九州武士を大宰府に招集して、尊氏方の
軍隊として編成するのです。


しかし、尊氏は同じ源氏系の武士たちを、彼らをまとめる
大将に取り立てます。
九州支配をさらに強固なものにしておくためです。


東上の準備をしていた尊氏には、気にかかる一族がありました。


それは、菊池氏と阿蘇氏です。


そこで、菊池の周りに、尊氏方の武士に所領を与え、見張らせる
ことにしました。


また、阿蘇氏に対しては、空白の大宮司職に、阿蘇庶子家を据えた
のです。尊氏方大宮司となります。(資料菊池市史)


多々良浜の戦いにて自害した、阿蘇大宮司惟直、惟成がいなくなり
父、惟時は京都にいて宮方として戦っていましたから。


尊氏にすれば、九州の真ん中で、菊池氏が宮方として
存在してほしくなかったのでしょうね。


菊池氏と阿蘇氏の繋がりを断ち切るのが大事だと考えたのです。


九州に来て、およそひと月後、尊氏は東上します。

では、その後、菊池武敏は、どうなったのでしょう。


前項にも書いた通り、武敏はめげません。


九州探題一色氏や、配下の武家方を相手に戦います。


多々良浜の戦さのあと、同年、六度も出撃して、武家方を
驚かせます。


武家方に囲まれながらも、宮方として、少数精鋭で立ち向かい
ました。


負けても、負けても、気落ちせず、立ち上がるその勇気と
根性は、一族に通じるものであり、生き様でもあったのです。


その終る所を知らずと言われた武敏の行方は、昭和になって
その墓所が、大分県の院内町にあることがわかりました。


言い伝えによれば、武敏は宇佐神宮の保護を受けて、この地に
住んだようです。(資料菊池市史)


武重公の墓と同じ、亀蛇の上に墓石のある立派なものだそです。


必ず、お参りさせて頂きたいと思っております。

山は黙して語らずですね。では。