しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

どうしても書いて置きたい十四代武士のこと

菊池武士(たけひと)は勇将武重猛将武光との間に惣領に
なった人です。

武重が亡くなり、武士が当主になって菊池氏は混乱状態に
なりました。


征西府将軍懐良親王が九州に西下されるので、お迎えする為の
準備をせねばならない時期です。


しかも武家方が対抗するために絶え間なく攻撃をして来ます。


尊氏は菊池に近い泗水の寺を安国寺と定めました。
つまり武家方の寺ということです。

二十三代菊池政隆が自刃した寺です。


武士は兄武敏や、武茂の後見を受けて懸命に治政をし、筑後
北部や肥後南部にて合戦もしています。


しかし報われません。


武士は次第に自信を失くしていったのでしょう。


師である大智禅師に多くの起請文や書状を送ります。


惣領家と庶子家とのあいだで決められた寄合衆の内談も、その
庶子家の台頭で、武士は、追い詰められて行くのです。


さらに大友氏の軍勢が攻め込み深川本城を落としてしまいます。


ついに武士は譲状を大智禅師に届けます。

兄達の名をあげてはいますが、最後には大智禅師の一任にて
決めてほしいとしたためられています。


また下の請文も届け、自分自身の気持ちを吐露しているのです。

菊池氏の非常時において、主にしがみつくことなく、一族また、
宮家の栄えを祈って身を引いた武士でありました。


まだ二十一歳だったと言われています。


出家して諸国修業に出るのですが、三十年後に菊池の寺尾野に
立ち寄り、詩を詠みます。
     
      袖ふれし花も昔を忘れずば
             我が墨染をあはれとは見よ


昔、見たさくらよ、今は僧となった私をどう思ってくれるか
懐かしいと情けをかけてくれ・・


菊池市寺尾野の大円寺跡地に歌碑があります。


武士は八代市二見町に正福寺を開き、そこで生涯を
終えました。
九十一歳と墓碑には刻まれているそうです。1401年です。


菊池一族の菩提を弔いつつの日々を過ごしたのでしょうか。


では。