しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

密かに託された、武重の役目


東上を続ける尊氏勢の船団は、七千隻はあったと言われます。


九州に下るときに、中国、四国の味方の領主たちに、
武具や兵糧米を用意しておくよう頼んでいました。


途中から足利軍は、陸と海に別れて進みます。


備中福山城を守っていた菊池武重たちを直義軍が攻めたてます。


比較にならないほどの軍勢に囲まれた武重らは
足利軍が焚く火の中を、果敢にも、討って出て逃げ
兵庫へと向かいました。

一方、新田義貞勢は京都を出て兵庫で尊氏軍と戦いますが
苦戦をします。


後醍醐天皇は、この時、楠木正成に兵庫に向かうように
命令されました。


正成は、京都に、尊氏を招き入れて戦さをした方が、勝てると
天皇に申し上げますが、却下されます。


正成の提案では、天皇は比叡山に避難することが含まれて
いたからだとも言われます。


行って、討ち死にせよと言われるのかと、言い放ち
すぐに出立します。


そのあと有名な、あの嫡男、正行との桜井の別れがあるのです。

吉野の如意輪寺内に、その涙の別れの場面の像があります。


今回の出陣は一族の者でさえ、参戦を拒否するほど、周りからは
勝ち目なしと見られていたのでした。


勿論、正成も討ち死に覚悟で、わずかな軍勢で向かったのです。


湊川の戦いと後に言われる合戦は、圧倒的な尊氏の軍を相手に
激闘するのですが、敗れます。


逃げ帰れば出来たかもしれないのに、逃げもせず正成たちは、
近くの寺で全員自刃します。


一方で武重は、宮方退却と決まったとき、弟武吉に正成軍の様子を
見に行かせます。


まさに、正成残軍が自害せんとする場面に行き合わせた、武吉は
そのさまを見捨てて帰れば恥しらずとして、ともに自害したのです。


写真は白川です。


敗走する新田勢を追って、足利軍が京都に迫ります。


天皇は、比叡山延暦寺に行幸されます。


共には新田義貞、名和長利、菊池武重、阿蘇惟時の一族などが
付きました。


歴女は嘆きます。正成の言うとおりしておけば・・

山いちじくです。食べられるそうです。


足利軍は何度も比叡山を攻撃しますが、険しい山岳でもあり
衆徒三千人の軍もおります。
なかなか、落ちません。


ここで、尊氏は、二つの皇統から天皇を、かわるがわる立てる
ことを申し出て、後醍醐天皇に京への還幸を促しました。


天皇は応じて京に還られます。


天皇は密かに新構想を持っておられました。


奥州にいる義良親王を中心に北畠顕家軍を東上させること、
恒良、尊良両親王を新田義貞と共に越前に行かせること
懐良親王を九州に行かせ、東上の軍隊を編成させることです。


このあと天皇は幽閉されます。しかし監視の目を盗み脱出され
吉野に逃れて、そこを南朝宮とされたのです。


武重もまた、拘禁されていた京をうまく脱出して、肥後に
帰ります。


武重には懐良親王をお迎えして、九州を平定するという
密命が下されていたのでしょう


武重の帰国を、武家方はまだ誰も気付いていませんでした。


これから、益々の活躍をしていく武重です。


我が家に咲いたホタルブクロです。
雨近い季節になりますね。では。