しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

多々良浜の戦い、武敏,千載一遇の好機を・・・

武敏が、少弐妙恵を討って二日後が、この戦いの日となります。


尊氏は、九州にに着いてすぐに、この知らせを聞き、博多へ
進軍します。


しかし装備は不十分なままでした。
「太平記」には、足利方の武士の中には馬も持たず鎧も付けて
いない者がいたとあります。


武敏はこのことも見越して、武具を集めていた少弐の館を
焼き討ちしたのでした。


さて両軍は、多々良川に沿った干潟で出会います。


この多々良浜、西南は松原、南は博多湾、北は丘、東は平野
という広々とした地形です。


兵の数では武敏のほうが圧倒的に有利でした。


尊氏は敵の陣容を見て、勝ち目なしと決め、名もない者に
討たれるより、自害しようと周りに告げたと、書かれています。


確かに、武敏は惣領でもなく、ずっと菊池にいた訳ですから
尊氏に、名も無き者と、見られても仕方ありません。


さあ、戦いがはじまりました。


激突を繰り返すうちに、北方の山手から、強風が吹き、浜の
砂を巻き上げ、菊池勢にたたきつけるので、顏をあげて前に
進めません。


足利側からは高地を利用して矢が飛んできます。
武敏はこの時、みずから陣頭に出て、敵に突入します。


そのあとに兵が続き優勢となります。


しかし、やはりそこは征夷大将軍、鎌倉殿であり、当地守護の
少弐頼尚も居ることで、菊池勢からの離反者が続出し、結果
敗れることになりました。


再び、葛の写真です。やっぱり尊氏みたいに思えます。


菊池軍の戦いが悪かったのではなく、尊氏が天下の将軍と
なるべき天運の下に生まれた人であったから神が勝たせたと
「太平記」は書いています。

中央奥が阿蘇山です。


共に戦った、阿蘇大宮司惟直と弟惟成は、逃げ落ちますが
途中、小城で敵に囲まれ、部下たちは戦死を遂げ、二人は
天山によじ登り、阿蘇の方角をむき自刃しました。


武敏は、八女、黒木を経て、菊池に逃げ帰りました。


千載一遇の好機をのがした武敏は、しかしこのあとも
九州の武家方に神出鬼没の行動で、対抗していくのです。

これはシシウドという花です。
まるでレースを広げたように原野に咲いてました。
では。