しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

珍しい碁盤の目の通りです

菊池神社の表参道入口です。

隈府町は菊池氏が領主だった頃、京の町になぞらえて、
碁盤の目のような通りにしたと言われています。

菊池武光公騎馬像。後ろの丘に神社があります。昔は城山と呼んでいました。
県下でも有名な桜の名所です。



征西将軍、懐良(かねなが)親王は後醍醐天皇の皇子です。

菊池神社境内から隈府町を見ました。銀杏の木が大きくなっていました。

迫間川です。奥に見える白い建物は菊池高校です。
こうしてブログを書いてるとまたまた隈府に行きたくなりました。
GWが過ぎたら出かけてみます。では。












奈良吉野山と隈府町

上の写真は菊池神社本殿です。


初回の終わりに、実は、隈府と吉野山は思わぬ繋がりがある、と書きましたね。
今日はその話をしましょうか。


菊池氏は平安時代から名前が歴史文献の端々に出てきます。
例えば蒙古襲来の時、
活躍したのは第十代当主武房(たけふさ)です。
博多にまで上陸して来た蒙古軍に攻められ、
苦戦の中、数百騎を率いて敵陣へ突撃し、退却させました。


世に言う神風が吹いたのは、その夜のことです。


さて、じゃ吉野山は菊池氏とどう関係してくるのでしょうか?


山桜で満開の吉野山で如意輪寺を訪れました。


そこには、後醍醐天皇の御陵があります。


朝廷が二派ある南北朝時代の南朝の天皇です。


鎌倉幕府が滅び、足利尊氏が征夷大将軍と称して室町幕府が出来るまでに、
双方の合戦が続きました。


ここで十三代菊池武重(たけしげ)ら一族は南朝方につき
激しく戦ったのです。


後醍醐天皇の御陵です。

これは如意輪寺境内にある楠木正成と息子正行(まさつら)像です。


正成が足利尊氏との湊川の戦いに向かう前に親子の別れをしているのです。


菊地武時,武重親子も同じく今生の別れをしています。


潔く戦さで討ち死にをするのが武士の生き様だったのでしょうか。

さくらのようにはらはらと・・・


明日はまた隈府町の話に戻りましょうね。



今夜二回目のUPです


心の故郷、菊池市隈府はどこに位置してるでしょうか。


皆さん地図検索してみてください。


歴史好き、特に戦国時代好きな方なら、たまらない地形です。


平安時代末から鎌倉時代、室町時代、
その後の戦国乱世を生き抜いてきた菊池氏一族が居を構えた盆地は
阿蘇外輪へと延びる山々を背負い、町の両側には、
深い渓谷を刻んだ急流の菊池川と迫川が一気に盆地へ流れこみ
肥沃な菊池平野を作り、盆地を囲む段丘には、
敵を見張り領民を見守る外城が造られたのです。
その数十八、難攻不落と言われた所以です

今の菊池川は水量も少なくなり川幅も狭くなりましたが、
昔、と言っても昭和のはじめ頃までは、隈府町の近くまで
帆掛け船が荷物を積んで来てたそうです。


深川と言う地名も残っています。


慣れないブログ作りでちょっと疲れました。ので、また明日。