しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

台城(うてなじょう)へ行ってみましょう→

台城の足元の水田地帯です。

ここで、水島の戦いは行われました。

台城から山鹿市方面を見ると、
今川了俊が陣を置いた日の岡山が(鹿本町)見えます。
中央奥の右側の山です。この写真の道の右上に台城があるのです。

本丸はこの奥です。

このうてな台地は今は平に整地されていますが、大小の古墳が
多く存在していたと聞いています。

円墳の上に石碑が建ててありました、台城祉と。
少しでも遠くが見えるように櫓があったのでしょうね。

樹々の隙間から鹿本方面が見えました。
当時は右側に日の岡山が見渡せたことでしょう。

これらの石がもしかしたら古墳の?・・なんてね。

麓の地区には供養の碑があります。

戦いが過ぎて残された亡き骸を葬って供養したのでしょう。


この後、武朝と了俊は南北朝合一まで何度も激しく合戦を
繰り返すのです。


今川了俊は1395年に京都に戻され探題職を解かれます。
文武に優れていた了俊は、その後は自国で文筆に勤しんで
90歳過ぎて死去。
その功績は高く認められているのです。
九州にいる時も、歌道に親しむ者には自分の知っている事は
教え惜しむなどせずに心安く応じたので、九州の和歌人には
好機であったと「九州太平記」に書かれています。


敵将ながらあっぱれと言うべきでしょうね。


では。