しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

一休さんみたいな幼少期、名僧大智禅師

今日は、菊池氏が心の師と仰いだ大智禅師への興味津々です。
禅僧の生涯が如何なるものであったのか紐解いてみましょう。

大智は熊本の不知火町の農家に生まれますが、子供の頃から
仏に興味を持っていて、坊さんになりたいと言い出したのが
七歳の時です。

川尻町の大慈禅寺の寒巌義尹和尚は連れて来られた大智を見て
只ならぬものを感じます。


幼名を万仲と聞いた和尚は饅頭を出して食べさせ、聞きました。


「お前の名は?」、「万仲です」


「万仲が饅頭を食べるとはどういうもんじゃ」と尋ねます。


「はい、大蛇が小蛇を呑むようなものでございます」


和尚はその答えに機智があり、落ち着いているのでこう言い
ました。


「小賢しい奴じゃ、坊さんになったら小智と名のりなさい」


黙って頭を振る万仲に、何故返事をしなかと問い詰めますと


「小智は菩提を妨げますから、大智と名のりとうございます」
と、はっきり答えたのです。


幼い子から、小智は、菩提(悟りを究めること)を妨げるから
という言葉を聞こうとは・・


和尚はこの子は修業すればきっと良い僧になれると思いました。

ある日、大慈寺の前の川を往来する舟を指さし和尚が
「ここから、あの舟を止めてみよ」と言ったところ、大智は
すぐに立ち上がり、障子を閉めました。


次に和尚が、「座ったまま止めよ」と言えば、すかさず目を閉じ
「はい、これでぴたりと止まりました」
と、答えたのです。


瞬時に機智に富んだ答えを出す大智に、和尚は感心し、修業に
励ませたということです。
                      (資料菊池市史)

それから大智の厳しい修業が始まりました。


寒巌が他界ののち、加賀の螢山和尚に学び、その後は元にまで
留学して十年間精進するのですが、学ぶに足る人物なしとして
帰国します。


大智は、当時の僧が仏法修業の道を外にあると言い、異国に
求めようとしたことを嘆きました。


道は日本にある、足元にある、
また、自分自身のそれぞれの心の中にこそあると悟ったのです。


そして、菊池氏に迎えられ聖護寺に入ります。

大智はこの地におよそ二十年住み、座禅三昧の日々を過ごし
武重ら菊池氏一族に禅道への導きをしたのでした。


しかしそれは戦法などではありません。
禅道には敵も味方もなく、心を練り胆力を養い、武将としての
心の支えとなる修養でありました。


一番上にあるのが大智禅師の墓です。


島原の有馬氏に招かれて、寺を開き多くの弟子を教えましたが
1336年、亡くなりました。


遺骨は分葬され、ここにお墓が立てられたのです。

石の上の岩松です。雨が降って生き返りました。


石の上にも・・と言いますものね。


では。