しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

地震、雷、火事、豪雨、災難続きの故郷たちです。

今回の豪雨災害本当にひどかったですね。
今の日本どこに住めば安心して暮らせるのか、我が故郷も昨年地震が
起こり、甚大な被害を受けました。その4年前はやはり北部九州豪雨で
被災しています。
安心安全な所なんてもしかしたら無いのかも?
でも、故郷は何があっても故郷です。例え住めなくなったとしても
心の中にある故郷を忘れず生きていたいし、また生きていってほしいと
思います。
ここに書くだけでは何の足しにもならないのですが・・

菊池市七城町へ行って来ました。山鹿市との境目辺りです。

ここは木野川と内田川の合流地点で、先の方で迫間川と合流して
更に先で菊池川と合流するのです。

その中の島に水辺の森公園があります。大きな岩に石で作られた
風ぐるまが付けてあり、クルクルと回ってました。
不思議でしょ、石の風車が風で回るなんて。

なんとのどかで、気持ちのいい風景でしょうか。
でもここは、さっきも言ったように川がいくつも合流しています。
豪雨による洪水に幾度も襲われたことでしょうね。

そしてその昔、ここで菊池武朝と今川了俊の水島の合戦が行われた
のです。
当時はこんなに高い堤防は無いし、広い河原だったのでしょう。

公園から見た台(うてな)台地です。
この上に台城があり武朝が陣を置いた場所です。


次回はその城へ登って見ましょう。


では。





菊池武朝申状 後編 仍て言上件の如し

さて、今日は武朝申状のご紹介でしたね。
漢文体で書かれていたそうです。


菊池市史に掲載してある読み下し文を紹介します。
武朝の心中を察して難解な漢字にめげることなく読んで下さいね。


  ※ 菊池右京権大夫武朝申す代々の家業の事


右今度勅使、将軍の宮に申さるるが如くんば、当家の忠孝は、元弘の
忠志に過ぐベからざるか、ここに因りて群党の訴えを閣かれ難しと
云々。

謹んで当家忠貞の案内を検するに
中の関白道隆4代の後胤太祖大夫将監則隆、後三条院の御宇延久年中
(1069-1073)始めて菊池郡に下向してより以降武朝に至るまで17代
凶徒にくみせず、朝家に奉仕する者なり。


然れば寿永元暦(1182-1185)の頃は、6代肥後守隆直、東夷の
逆謀(源氏の反逆)にくみせず、剣璽(天皇家の宝)を守り奉り
安徳天皇の勅命を受けて、数年忠勇を励み、嫡子隆長、三男秀直
以下、数輩命を致しおわんぬ。


後鳥羽院の御代、承久合戦の時には、先祖能隆、大番役として
叔父両人を進め置くにより、院宣に随って進み戦いおわんぬ。
それに就いて当家の本領数箇所、平義時(執権北条義時)の為に
没倒せられおわんぬ。


文永弘安の両度、蒙古襲来の時は、高祖武房、勇敢を戦場に励まし
佳名を異朝に施し、既に日本の日本たるの大功をぬきんずるの由、
天下の歌謡に顕れおわんぬ。


後醍醐天皇の御時、元弘3年(1333)には、曾祖父武時入道寂阿
忝くも勅詔を奉じ、同じき3月13日、凶徒の将、平英時(鎮西探題
北條英時)の陣に討ち入り、父子一族以下、残る所なく討ち死に
せしめおわんぬ。


然れば元弘一統の頃、義貞、正成、長年出仕せしむるの日
正成言上の如くんば、元弘の忠烈は、労功の輩これ多しといえども
いづれも身命を存する者なり、独り勅諚によりて一命を落とせる
者は、武時入道なり、忠厚尤も第一たるかと云々。
この条叡聴に達するの由、世以ってその隠れなき者なり。


建武2年(1335)、高氏(足利尊氏)謀叛以来は、武重参洛せしめ
ただちに忠とうを献ずるの間、宸翰以下御感特に比類を絶つ者なり。
    (天皇直筆にて戦功を賞されたことは比類なき栄誉である)


鎮西に於いては、在国の一族ら(武敏等)、妙恵(少弐貞経)誅伐の
大功を致し、高氏下向の時、多々良浜の合戦に於いて、武節を
励ましおわんぬ。


延元2年(1337)に武重下向の後は、度々の合戦を致し、都鄙の
善譽を蒙るか。      (都や地方もその栄誉を讃えた)


その後、武士彼の武名を相続せしめ、肥後、筑後を馳せ廻り、度々の
合戦を致し、遠近の官軍を護持せしめおわんぬ。


興国(1340ー)以後は、武光、故大王の入御を成し奉り最初八代城に
於いて一色入道道猷父子退治せしむるの後、大小の籌策申沙汰し、
大友少弐等を御方に服さしめ、20余年の陣、鎮西一統の大功なる
者なり。(懐良親王を奉じ九州を平定した功労者となった)


武政はかの忠功を相続せしめ、度々の合戦を致し、種々の計略を
めぐらす時分、早世せしむるの間、武朝12歳の時より、筑州大王の
御陣に参勤せしめ、父祖の行跡を守り、鎮西の御大事を荷担せしめて
より以来は、文中の頃(1372-1375)、了俊肥後に寄せ来るの時
数月防戦の武略を励まし、水島の陣に於いて、了俊追い落としの功を
成し、鎮西両年の静謐を致しおわんぬ。


其の剋、武朝、将軍の宮に属し奉り、肥前の国府に在陣せしめ
諸方の計策をめぐらす処、今川仲秋、松浦以下の凶徒を相率いて
博多に打ち出づるの間、肥後の国の守護代武国を指し遣わし、大綱の
合戦を致し、仲秋を追い散らしおわんぬ。


また大内義弘、豊前、豊後、両国の凶徒相ともに罷り出づるの間
蜷打の陣に於いて、合戦を致し、武光の舎弟武義入道自関並びに
武安、討ち死にせしめおわんぬ。


しかして後、了俊の一類、大友、少弐、大内兄弟数千騎、肥後の
国に寄するの間、託麻原に於いて、天授4年(1378)九月、武朝
16歳の時、運を天道に任せ、命を公儀に忘れ無勢たりといへども
多勢の陣に馳せ入り、戦伐の勇力をぬきんで一族以下の鋭卒数十人
討ち死にせしめ、自身疵を被りて攻戦の最中、将軍の宮出陣ありて
馳せ向かわれ、了俊御合戦に及ぶの間、散在の官軍少々御旗下に
馳せ参るによりて、凶徒退散せしめおわんぬ。


弘和2年(1382)の頃は、武朝叡旨を守りて将軍の宮に奉仕するの間
一族以下の扶持人等、彼の朋党の語らひを受け分領守山の要害に
立て籠り(一族内部の家来が敵方にそそのかされて)、武朝
しりぞけんと議するの条、時日を廻らさず、自ら馳せ向かい、
各追い落とさしめおわんぬ。


是は則ち私の計策たりといへども、ひとえに公平を存する所なり。
且度々の勅使、見知らせらるる者なり。
(私的な事案とは言え公平を期すために書く、かつ勅使もよく
                     ご存じの者である)
是にくわうるに元弘以後(1382)は当家の武略を以って、九州毎度の
合戦を致し、今に至るまで了俊多勢の陣を相支えおわんぬ。


就中、元弘3年(1333)より今年弘和4年(1384)に至りては52年の
星霜なり。


この間、正平13年以後、27年間は、顕興入道紹覚(名和顕興)
武光以来の武功をたのみ、当家の分国に居住せしむるの上は
功勲の次第、皆宜しく存知すべき者なり。
(名和顕興は武光の武功のおかげで住んでいるのだから、当家の
               功勲を把握しているはずである)


然れば則ち忠の浅深に就いて御成敗あるべくば、何ぞ当家代々
300余歳の忠義をさしおかれ、近年奉公阿党の所望を賞せられんや。


また理非に任せて御沙汰あるべくば、将軍の宮御事、正平年間に
勅裁を受けられ、故大王の御代官として、年来労功を積まれ
御理運相違なき上は、勅裁豈余儀に亘るべけんや。
(良成親王は勅命によって懐良親王の御意志を継がれ長年苦労され
その判断に誤りはなく帝のお裁きに他に取るべき選択があるとは
思えない)


仍て言上件の如し。
(よってごんじょうくだんのごとし)
弘和4年7月             藤原武朝



如何でしたか?
武将が魂を込めて自身と祖先の行跡を書きしたためたからこそ
勅使を動かしまた帝の胸にも響いたのではないでしょうか。

武朝も見たかもしれない風景、癒されたのでしょうか、それとも
気を引き締めたのでしょうか。


では。







菊池武朝申状 前編 侮られてたまるか

北部九州が今大変な事態となっていますが、熊本に居る身としては
一日も早く収まり元の暮らしに戻られることを切に願っております。


では話をさせて頂きます。


あの南北朝動乱はあまりにも長すぎました。

足利将軍義満の時代1392年にやっと合一します。


しかしその動きは10年以上も前から始まっていたのでした。


幕府は早く朝廷を一緒にして権力を確たるものにしたかったし、
南朝方も、戦う武士たちは次第に追い込まれて来て、なかには
妥協派も出て来つつありました。

さて武朝ですが、良成親王と共に勿論バリバリの南朝再興派です。


ですが、武朝は、1381年今川了俊によって隈府を追われ宇土に
逃げ込みました。

その頃でしょうか、一族からも武朝を排斥しようと、南朝に対し
申し立てが行われたのです。


南朝からは勅使がつかわされ、良成親王は懸命に説明されますが
横から告げ口するが者いて、本意が伝わらずじまいになります。

勿論、武朝は憤慨します。
22歳の若惣領は自ら、これまでの菊池一族の朝廷への忠節と、
今回の中傷への反論を書き記して南朝廷へ届けました。


これが世に言う「菊池武朝申状」です。


江戸時代に、隈府正観寺に写本が残されていたのを、渋江松石が
肥後の国学者に読ませて、それが元で江戸に居た塙保己一が
この申状を書物「群書類従」に収めたのです。

塙保己一という人物、学校で習いましたよね。


この申状により南朝廷は武朝の権限を認めたと言われます。


武朝が宇土へ行ってから八代に移るまで10年余りかかったと
以前書きましたが、謎が解けました。


武朝を退けようとした中に八代の名和氏がいたので、宇土にて
朝廷からの返事を待っていたのですね。

宇土市街地が見えます。左側は有明海です。


信任を受けた武朝を名和顕興は八代古麓城に迎えたのでしょう。


それではここにその申し状をご披露・・
としたいのはやまやまですが、長くて皆様お疲れになると思い
ますので、次回に致します。
あしからず。


では。