しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

尊氏の杞憂的中、武重の旗あげ

竜門ダムと八方ヶ岳です。


この下方に、武重が兵をあげた寺尾野城がありました。


1337年の二月に武重が「兵を挙げた」という急報は博多の九州探題
一色範氏のもとに入ります。


探題方にすれば、京都に居るはずの武重が、菊池に帰って来たことは
驚きであり、また重大事でした。

武重の帰国に、九州の宮方は奮起します。


探題、一式範氏は、弟頼行と共に、肥後南部方面に攻めて
来ました。


今までは、部下に任せていた戦いに、自ら出陣してきたのです。


武重と恵良惟澄の連合軍は、緑川右岸の犬塚原で一式軍を迎え
うちます。


この、戦いで一式側は、弟頼行、その他有力な武将を失くします。


総大将の範氏は、川尻から船で筑前へ逃げ帰りました。

歴女もびっくりのこの強さ!


尊氏も苦慮します。


そして、足利方に従うよう、武重に書状を送りました。


それを読んで送り返した武重の返書が・・ 凄い!


尊氏がお好きな歴女の皆様、どうか怒らないで、お読みください。


「恩を受けて、恩返しをしないのは、形だけは人間であっても
心は畜生である。恩を受け怨みをもってむくいるとは、いったい
どんなことか。今、お前たち兄弟は、君のご恩に満ちたりて
ほこり、君のご恩をくつがえしている。これは大逆無道で、畜生
にもおとることだ。自分は朝廷につかえる民である。どうして
無道に味方し、畜生に従うことができようか。そんなことは
絶対にできない。汝らは生きて畜生類となり、死んで三悪道に
落つのだ。悲しいことだな。いざ来いよ尊氏。兵を率いて
菊池に来い。そして、我が武重が首を斬ってみよ。我等小さい
ながらも、先祖以来、武家としての家名を汚してはいないぞ」
                     (資料菊池市史)
現代からみれば、ちょっとキツイ言い方ですよね。


でも当時の武士たちは、毎日がまさに命懸けですから、
敵方から従えと文書で言われても、筋の通った者なら、
なおのこと反発するのは自然なことと受け止めています。


今はどこも、サツキの花がきれいですよね。


我が家もこわれた土手を、地震で落ちた瓦などで土留めして
鉢植えのものを地植えしたら、咲いてくれました。