しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

尊氏、九州へ、落ち延びたのではない?

箱根の戦いに勝って勢いづいた尊氏勢は、
敗走する義貞勢を追って京都に猛追してきます。


義貞は宇治と山崎の間、大渡に陣を構えます。


勿論、武重も陣内におります。


両軍の主力が死力を尽くしての戦いですから、お互い一歩も譲らず
攻防は三日間も続きました。


時期は冬、正月です。


尊氏は京都に来るまでの間に、道々の武士たちを従え大軍に
なっていました。


歴女も素直に感嘆します! やはり大物は違うなあ


武重は大苦戦を強いられてしまいます。


天皇は比叡山にのがれられ、もはやこれまでと、全軍が
比叡山に引き上げ始めました。


足利軍が京都を占領した二日後に北畠顕家の軍勢が到着します。


天皇が尊氏離反の折には駆けつけるよう、指令をされて
いたのです。


義貞軍は陣を立て直し、見事京都を奪還しました。

敗れた尊氏は瀬戸内海を通り九州へとくだりました。


ウツギの花も今が見ごろです。


尊氏は願い出ていた、「義貞を討て」という
光厳上皇の院宣を、九州へ向かう途中、勅使から受け取ります。


この院宣は武士のあいだでは、天皇の綸旨よりも重要視されて
いました。


そして尊氏は九州に上陸します。
出迎えたのは、筑前守護,少弐頼尚らでした。


しかし、早々に激しい戦いが始まります。


仕掛けたのは、我が菊池氏、肥後にて兄武重の留守を守って
いた武敏と,阿蘇惟直の軍です。


これが、世に言う多々良浜の戦いであります。

ここに至るまで、武敏は幾度も戦さを重ねてきました。


一度は敗れ、菊池の本城も落とされましたが、
菊池の山々に潜み時を待ちました。


そして五十日後、阿蘇惟直と共に筑後に現れて、
大宰府に攻め入ります。


少弐頼尚が尊氏の迎えに出ていた留守を狙ったのです。


留守役は、父、貞経入道妙恵でした。


武敏連合軍は大宰府舘を焼き払い、近くの城に退いた
妙恵を自害させます。


四方が絶壁になってるので、その城の中の内通者によって
落としたと言われています。


妙恵は尊氏の為に準備した多数の武器を全部焼かれ
面目なしとして部下と共に切腹したのです。


妙恵は三年前、鎮西探題を討とうとの、武時との約に背き
武時を無念死させたあの少弐貞経その人でした。


武敏は仇を討つぞ!との思いで戦さに臨んだのだと
歴女は確信しています。

阿蘇外輪山のグリーンロードから眺めました。お天気が良かったら
眼下の空港もきれいに見えるのに残念。


多々良浜の戦いは、また明日といたしましょう。