しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

動乱のきっかけは、尊氏の鎌倉入り?

写真は秋の七草の一つ、葛(くず)です。今は成長期で
縦横無尽につるを伸ばしているのです。


どこどこまでも、つるを伸ばして、木や草にからみ付き
巻き倒してしまいます。


見ながら、つい、思ってしまいました。尊氏みたいだなあ、と


後醍醐天皇の新政の時、足利尊氏が受けた恩賞は
武士の中では、楠氏、新田氏を超えて、最高の物でした。


なのに、何故、天皇に背いたのでしょうか?


後醍醐天皇にどんなに厚遇されても中央に席を置かない
尊氏を周りの者たちは、不可解に感じていました。


「尊氏なし」と噂もしました。


尊氏は京都の六波羅探題を攻め落としたあと、
私設の奉行所を設けたと言われています。


新政のあとには土地をめぐる争いが各地で起こります。


その治安の乱れの中、北条一門も蜂起します。
中でも北条時行は五万の大軍で鎌倉を攻めました。


新政権のもと、鎌倉で統治していたのが足利直義と
成良親王です。


北条軍の勢いが勝り直義たちは鎌倉を脱出します。


鎌倉に幽閉されていた護良親王はこの時に直義の命で
殺されてしまうのです。


残して置けば、もしかして、北条氏の大将に祭り上げられたかも?
本当は尊氏の命令だったかも?


歴女の憶測です


あわれ、大塔宮の最期に涙せずにはいられません。

写真はスイカズラです。忍冬とも書きますよね。
♪忍という字は~難しい♪~心に刃を乗せるのね♪~という歌を
思い出しました。


忍の文字は胸の奥に刻まれ、隠され、素知らぬ顔をして、
尊氏は戦ってきました。


弟、直義が鎌倉から逃げ延びて、尊氏に救援を求めて来た時
尊氏は、今だ、立ち上がる時だ!と心の中で叫んだでしょうね。


北条時行を討伐する許しを天皇に願い出ます。


あわせて、征夷大将軍になることも願いましたが
勅許はありません。関八州の管領としての権限は
与えられました。


京を出たとき、少なかった尊氏軍は、鎌倉に近づくに連れ
各地から加わった武家たちで、五万騎にまでなっていました。


時行は敗走し、尊氏、直義は堂々と鎌倉に入ったのです。
これは中先代の乱と呼ばれています。


乱が収まっても尊氏は京へは帰りません。


尊氏の目的はここではっきりとしたのです。


さあ、やっと菊池氏の出番が来ました。
武重は,京の都の武者所に弟武吉と共に出仕していました。


京都では尊氏討伐の軍が結成されます。
武重,武吉兄弟は、新田義貞の軍に加えられ出陣するのです。

歴史ですから、勝敗は分かっているのですが
歴女は祈ります。武重公、どうぞ、ご武運を!