しべ桜の興味津々

第二の故郷隈府町の、菊池氏一族をただいま
勉強中です

歴女も感服、側近の諫言、泣けます

今日はちょっと菊池氏を離れたお話です。


側近とは、後醍醐天皇の側近、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)
のことです。

功労者でもあった護良親王(大塔宮)を天皇は追放しました。

親王は後に、拘置された土牢で足利直義によって殺されるのですが、
その時、「尊氏よりも主上がうらめしい」と怨みの言葉を残されています。


今や天皇の失政は誰の目にも明らかになってきたころ、側近として
辛苦を共にして来た藤房は、それをいましめる諫言書状を残して
京を出たのです。


これは後に移られた吉野南朝宮の後醍醐天皇の玉座です。


書状には次のように書かれていました。前書きは省きます。

「宮殿を作るというので、ただでさえ軍功の割に恩賞が少ないと
嘆いている地頭たちに収入の二十分の一を徴収すると命じて、
いっそう地頭たちの恨み心をつのらせている。


だいたい武士たちが
帝に味方して北条氏を亡ぼしたのは、戦って恩賞をもらおうと
思ったからである。

それなのに貴族階級の者や、宮廷に仕える者は
すでに恩賞を受けたというものの、手柄を立てた武士で、
まだ恩賞を受けていない者が多いのに、
彼らが恩賞を望もうとしなくなってしまったのは
恩賞が不公正で、まともに功労を認めてもらえないので
諦めて申し立てをしなくなってしまったからである。


赤松円心は天下を鎮めた功労者であるのに、
いったんは守護に任じながら、これを取り返してしまったのは、
いったい円心にどんな過ちがあったからであろうか。


ただ恩賞が少なかったというだけでなく、与えた物を取り上げる
ことまでして、これでは天皇の言葉は信用されない。


もしも、今、
武家たちの首領になるふさわしい人が出現したならば
天皇の政治に恨みを持つ人々が、招かれなくても手弁当で自然と
その人のもとに集まることは疑いの余地がない。

そんな状態だから正しい政治をなされよ」と。

写真は、吉野の如意輪寺にある後醍醐天皇の御陵です。


このあと藤房は出家します。

驚かれた天皇は寺へ使いを出しましたが、すでに去ったあとでした。

寺の一室の障子に、和歌が一首残されていました。
  
   「住み捨つる山を浮世の人とはば 
               嵐や庭の松にこたえん」

どこに行ったか知りたいなら、嵐が松の下で教えるでしょう、という
意味です。

藤房と天皇はかつて、北条氏に追われて、三日間、山中をさまよい
とある松の木の下で休まれたときに、天皇は歌を詠まれました。
 
   「さして行く笠置の山を落ちぬれば
               天が下には隠れ家もなし」

これに応じて藤房は
   「いかにせん頼む蔭とて立ち寄れば
              なお袖ぬらす松の下露」
と詠みました。

松の下しかしのぐ場所のない天皇に心を寄せる藤房です。

その松を詠むことで、何のために辛い思いをしたのかを思い出して
よい政治をしてくださいと言い残したのです。(九州太平記)

名も知らぬ祠です。


きっと、藤房は何回も、天皇に進言したと思います。

でも、聞き入れられることはなく、そばを離れる決意をしたのです。

正しいことは正しい、悪いことは悪いと、言葉を濁さず、ちゃんと
言ってくれる人、後醍醐天皇はそんな大事な人を失くしてしまった、
きっと悔やまれたことでしょう。