建武の新政、武時の無念は晴らされたのか?
菊池神社本殿です。武時公は主祭神のひとりとして祀られています。
北条氏が滅びると、後醍醐天皇の新政が始まりました。
まずは、手柄を立てた武将たちへの恩賞でしょうね。
天皇が設けた中央の役所に、記録所、武者所、雑訴決断所、恩賞方と
あります。公家にしても、武家にしても、恩賞が一番の関心事だった
のは言うまでもありません。
しかし、天皇はここで大きな間違いを犯してしまわれます。
それは、不平等な印象を植え付け兼ねない恩賞の与え方でした。
これが、後の混乱を招くことにつながるのです。
でも、こと菊池氏に対しては多大な恩賞が、つまり所領と地位が与え
られたのです。
楠木正成が後醍醐天皇の前において、武時の手柄を褒めたたえた事が
要因のひとつでもありました。正成はこう申し上げました。
「元弘の忠烈は労功の輩、これ多しといえども、いづれも自命を存する
者なり。ひとり勅諚(ちょくじょう)によりて一命をおとせし者は
武時入道なり。忠厚もっとも第一たるか」と。(資料菊池市史)
一族と共に探題に討ち入り戦死をした武時は忠厚のさきがけであり
他の武将達に与えた影響が大きかったことを物語っています。
命からがら逃げ延びた、嫡男武重は菊池十三代当主となり、
肥後守に任ぜられました。
弟たちや一族にもそれぞれ領地が与えられたのです。
武時の無念は晴らされたと思うことにしましょうね。
時の流れは水よりも早いのでしょうか、
人の心もまた留まることなく次の時代を求め、
建武の新政はわずか二年足らずで、もろくも
崩れていくのです。では。
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